「投獄されても」エレミヤ書38:1-13、2018年7月22日(日)船越教会礼拝説教
・今日のエレミヤ書38章1~13節には、預言者エレミヤが役人たちによって水溜に投げ込まれ、それを聞い
たクシュ人(=エジプト人)の宦官エベド・メレクがゼデキヤ王に訴えて、エレミヤを救出したことが記
されています。この記事は、内容的には37章と重複しているように思われます。37章の記事は、先週の日
曜日の礼拝説教のテキストでしたので、先週礼拝に来られた方はお分かりのように、大体以下のようなこ
のような内容でした。
・エルサレムを包囲していたカルデヤ軍(=バビロン軍)が、エジプトのファラオの軍隊が進軍して来た
ので、一時エルサレムから撤退します。その時エレミヤは、エルサレムを出て、親族の間で郷里の所有地
を相続するために、ベニヤミンの地に行こうとしました。その時エルサレムを守っていたイスラエル軍の
守備隊長イルイヤが、エレミヤを捕えて、役人たちの所に連れて行きました。役人たちは激怒してエレミ
ヤを打ちたたき、牢獄に入れました。ところが、ゼデキヤ王は使者を送ってエレミヤを連れて来させ、宮
廷で密かにエレミヤに、カルデヤ軍が撤退し状況が変わったので、「主から何か言葉があったか」と尋ね
ます。エレミヤは、「ありました。バビロンの王の手にあなたは渡されます」と答えます。そして自分が
殺されないように牢獄に戻さないように頼みます。ゼデキヤ王は、エレミヤの拘留は解きませんでした
が、別の場所に移して、毎日エレミヤにパンを届けさせてエレミヤを守ります。
・このような37章の記事と、今日の記事は内容的にはよく似ています。ですから、この二つの記事は同じ
出来事を描いている、重複記事ではないかという見方をする人もあるようです。エレミヤ書には、たとえ
ば神殿説教に関する記事が7章と26章に、エレミヤの釈放については39:11-12と40:1-6にというふうに重
複している例が、他にも見られるからです。しかし、今日の記事と37章の記事の場合は、具体的な点で、
例えばエレミヤの逮捕の状況とか、エレミヤが投獄された水溜めの場所とか、今日の記事に出て来るエベ
ド・レメクの役割とか、王との面会の場所とか、いろいろ違っていますので、やはり別の出来事と考えら
れるのではないかと思われます。預言者エレミヤは、一度限りではなく、二度、三度と逮捕・勾留・投獄
という経験をしたのでしょう。
・新約聖書ではパウロが、コリントの信徒への手紙二の11章で、他のユダヤ人伝道者と自分を比べて、
「だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて
誇ろう」(11:21)と言った上でこのように述べています。≪苦労したことはずっと多く、投獄されたこ
ともずっと多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした≫(11:23)と。旧約の預言者エレミヤの場合
も、新約のイエスの福音を宣べ伝えるパウロのような伝道者も、彼らが語る言葉は、すべての人に抵抗な
く受け入れられたというのではないのです。むしろ、彼らの語る言葉は、それを受け入れることのできな
い人々によって抵抗を受け、その言葉を語る彼ら自身の身に、逮捕・勾留・投獄、場合によっては処刑と
いう苦難と迫害が起こることもあり得るという事実を物語っているように思われます。
・エレミヤの場合は、最後まで生き延びますが、ユダの残留民の一行と共に彼の意に反してエジプト
に連れて行かれ、そこで死んだと言われています。パウロの場合は、ローマで殉教の死を遂げたと言われ
ています。
・さて、エレミヤが語った預言が今日のエレミヤ書38章2節、3節にこのように記されています。≪主はこ
う言われる。この都にとどまる者は、剣と飢饉、疫病で死ぬ。しかし、出てカルデヤ軍に投降する者は生
き残る。命だけは助かって生き残る。主はこう言われる。この都は必ずバビロンの王の軍隊の手に落ち、
占領される≫(37:2,3)と。この主の言葉は、エレミヤ書21章9-10節にほぼ同じものとして既に出ていま
す。おそらくエレミヤが繰り返し語った預言の言葉に違いありません。
・このエレミヤの預言を聞いたゼデキヤの役人たちは王にエレミヤを死刑にするように訴えます。≪どう
か、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を
挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです≫(4節)。かつてヨヤキ
ム王によって、≪エレミヤの言葉と全く同じような預言をしていた≫(26:20)ウリヤという預言者が処
刑されたことがありました(26:23)。ゼデキヤの役人たちは、ヨヤキム王がウリヤを処刑したように、
ゼデキヤ王にもエレミヤを処刑するように求めたのかも知れません。
・バビロニア軍と戦わずに、投降を勧めて生き延びる道を選べと語るエレミヤの預言に対して、ゼデキヤ
の役人たちは、それを否定してこのように言っているのです。
・第一に、エレミヤは≪あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士の士気を挫いている≫と。
≪士気を挫く≫は直訳すると≪手を弱くする≫という表現になります。≪都に残った兵士の手を弱くする
≫から≪都に残った兵士の士気を挫いている≫と理解したのでしょう。エレミヤは投降を勧めたわけです
から、エレミヤの言葉に従えば、都に残った兵士は武器を捨てたに違いありません。
・兵士が戦いを放棄することが、ゼデキヤの役人たちが言うように、そんなに悪いことなのでしょうか。
私たちの国の昭和史において、昭和天皇裕仁が1945年8月15日の「終戦の詔書」を半年前に出して、戦争
を止めて降伏していれば、1945年3月10日の東京の空襲も、3月26日から始まった沖縄戦もなく、ヒロシ
マ、ナガサキの原爆投下もなかったのです。
・戦争を放棄することは、戦争をしない事なのですから、人の命が失われることはありません。命が失わ
れなければ、人はどのような状況の中でも生き抜く可能性があるのです。
ユダの国の民も含めて旧約の民イスラエルには、国や民族の枠組みを超えて、神との契約に基づく信仰共
同体である契約の民として生きる道が与えられています。エレミヤが、主はこう言われると言って、バビ
ロン投降をゼデキヤ王やユダの民に勧めたのは、ユダの国は滅んだとしても、国の形とは別に、たとえバ
ビロンに捕囚となって行っても、、契約の民としての将来が、バビロンの地にもあるに違いない、と確信
していたからではないでしょうか。
・第二に、エレミヤを死刑にと、ゼデキヤ王に訴えた役人たちは、エレミヤが≪この民のために平和を願
わず、むしろ災いを望んでいる≫(4節)と主張しています。役人たちが言うように、エレミヤは≪この
民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいる≫のでしょうか。ここでの平和はシャロームで、「幸
せ、福祉、安全など包括的な意味の言葉です」。役人たちが言うように、エルサレムに留まりバビロン軍
と戦えば、エレミヤが言うように、≪この都にとどまる者は、剣と飢饉、疫病で死ぬ≫しかありません。
そのような役人たちが選択する道がユダの国の人々にとって「平和」(シャローム)なのでしょうか。む
しろ「災い」ではないでしょうか。逆にエルサレムを出て、バビロン軍に投降して生き延びることこそ、
ユダの国の人々にとっては「平和」シャロームに繋がるのではないでしょうか。
・このような役人たちの主張に対して、ゼデキヤ王ははっきりと否定せず、≪「あの男のことはお前たち
に任せる。王であっても、お前たちの意に反して何もできないのだから」≫(5節)と答えます。ゼデキ
ヤはバビロンの王によってユダの国の王となったので、親エジプト派の役人たちを自分に従わせることが
できなかったのでしょう。
・≪そこで、役人たちはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜へ綱でつり降ろした。水
溜には水がなく泥がたまっていたので、エレミヤは泥の中に沈んだ≫(6節)と言われていますから、こ
のまま放置されれば、エレミヤは泥の中に沈んで死んでしまうでしょう。
・その時、クシュ人(=エジプト人)の宦官エベド・メレクが、王に訴えます。≪「王様、この人々は、
預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。彼を水溜に投げ込みました。エレミヤはそこ
で飢えて死んでしまいます。もう都にはパンがなくなりましたから」≫と(9節)。このように、エベ
ド・メレクは、エレミヤ救出の緊急性を訴えます。
・このクシュ人の宦官エベド・レメクは、エレミヤを水溜に入れた役人たちよりも力が上だったのかも知
れません。ゼデキヤ≪王はクシュ人エベド・レメクに、「ここから30人の者を連れて行き預言者エレミヤ
が死なないうちに、水溜から引き上げるがよい」と命じ≫(10節)ました。このゼデキヤ王は優柔不断と
言えば、優柔不断です。態度をころころ王に訴えて来る相手の主張によって変えます。そのためにクシュ
人エベド・レメクによってエレミヤは水溜から救出されて助かります。エベド・レメクのエレミヤ救出の
行動は、機敏で適切であり、エレミヤは無事保護されます。
・このエベド・レメクに対して、主は≪あなたがわたしを信頼したから≫と、39章18節では、エルサレム
陥落の日に救出することを約束しています。
・このように、今日の箇所では、「エレミヤを通して語られる主の言葉をめぐって、それを拒絶し抹殺し
ようとする役人たちと、聴従して命を選ぼうとするエベド・メレクの態度が、あざやかに描かれている」
のであります。
・ヘブライ人への手紙4章12節に、≪神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、
精神と霊、間節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる≫いう言
葉があります。この「神の言葉」について、ヨハネ福音書の著者は、ロゴス賛歌の中で、≪言(ことば)
の内に命があった。命は人間を照らす光であった≫(1:4)と語っています。
・エレミヤの預言も、イスラエルの人々にとって命に至る道であり、人間を照らす光であったのではない
でしょうか。それに聴従して、命を選ぼうとしたエベド・メレクのような人物がいたということに、私た
ちは希望を見いだす思いがいたします。役人たちの存在だけだったらと思うと、人間の闇が神の言葉が持
つ命と光を覆いつくしてしまうのではないかと思うからです。
・私たちはエレミヤの語った神の言葉がイエス・キリストに受肉したことを知っています。私たちはその
イエス・キリストを救い主として信じています。そのイエスが、≪わたしは道であり、真理であり、命で
ある≫(ヨハネ14:6)と語っています。
・今私たちは、このイエス・キリストの福音を、人間の全的解放への招きとして、証言するとともに、エ
ベド・レメクのように、自分の置かれている具体的な社会的な現実の中で、イエス・キリストの福音が示
す、すべての人にとっての命の道を選び取って行きたいと願います。
・その力が私たちに与えられますように
!