なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(103)

    「信頼による生」エレミヤ書39:15-18、2018年9月2日(日)船越教会礼拝説教


・礼拝の後で少し詳しく報告させてもらいますが、連れ合いが一昨日の金曜日にT大学病院に入院し、そ

の日の内に人工肛門の手術を受けました。2週間ぐらい入院し、退院してから抗がん剤治療を受けること

になっています。医者は奇跡が起きなければ、余命は真ん中で3年とおっしゃいました。その医者の言葉

を聞いて、連れ合いがいつまでも一緒にいるのではないのだ、ということを改めて実感させられました。

と同時に、私自身も何時か、そう遠くない将来には、この世を去っていくことになるのだということを、

しみじみと考えさせられました。


・観念としては、今までも、連れ合いも私も、いつか死の時を迎えるということは分かっていました。し

かし、大方健康で日常を生きていますと、日々の課題に向き合っていますので、その課題をこなすため

に、どう生きるかという技術的なことに頭が働いてしまいます。自らの死としっかり向き合って、この自

分の命を贈り物として私に与えて下さった神の御心にふさわしく、その期待に応えて、自分は生きてきた

だろうかと、問い、考えることはほとんどありません。


・今回連れ合いの病気を通して、生かされて色々な方々と出会い、またいろいろなことを経験することが

許されていることへの感謝の思いを強くしました。それは私自身の人生における神の恵みの豊かさではな

いかと思います。しかし、私はその神の恵みの豊かさにどのように応えて生きて来ただろうか。本当に神

に信頼して生きてきただろうかと、考えざるを得ませんでした。


・さて、先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書39章15-18節には、ひとりの神に信頼して生きた人

物への神の約束が、エレミヤの預言として記されています。そのひとりの人とは、エベド・レメクという

人物です。エベド・レメクという名前の意味は、「王のしもべ」または「メレク(神)のしもべ」です。


エレミヤ書によれば、彼はユダの国の王ゼデキヤの宮廷にいた宦官の一人で、クシュ人(エチオピア

人)でした(37:7)。宦官とは、去勢された男の役人を意味しますが、古代では王の宮廷に皇后や皇妃が住

後宮があり、その後宮の守衛として宦官が多く採用され、身分も高かったと言われています(新聖書大

辞典)。このエベド・レメクも、ユダの王ゼデキヤに仕えるそのような宦官の一人だったのでしょう。


エレミヤ書37章を扱ったとき、この説教でも取り上げましたが、彼は、エレミヤが水溜に投げ込まれた

ことを聞いて、ゼデキヤ王に訴えました。≪「王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひど

いことをしています。彼を水溜に投げ込みました。エレミヤはそこで飢えて死んでしまいます。もう都に

はパンがなくなりましたから。」(37:9)と。この時、バビロン王ネブカドレツアルの軍隊がエルサレム

を包囲していて、エルサレム兵糧攻めにあっていて、城内にいたユダの人々は、食料が尽きようとして

いたのです。ゼデキヤ王はクシュ人エベド・レメクに命じて、このように言いました。≪「ここから30人

の者を連れて行き、預言者エレミヤを死なないうちに、水溜から引き上げるがよい」》(37:10)と。そこ

でエベド・レメクは水溜からエレミヤを助けることができました。


・実は、エレミヤを水溜に投げ入れたのは、ゼデキヤ王の役人たちでした。その役人たちは、エルサレム

陥落を預言していたエレミヤを、「どうか、この男を死刑してください」とゼデキヤ王に訴えて、ゼデキ

ヤ王の許しを得て、エレミヤを水溜に投げ入れたのです。宦官として後宮に仕えていたエチオピア人のエ

ベド・レメクが、ゼデキヤ王の許しを得て、役人たちが水溜に投げ入れたエレミヤを助けるために、その

ゼデキヤ王に訴え出たのです。


・たまたまゼデキヤ王が優柔不断だったので、エベド・レメクはエレミヤを助けることが出来ました。も

しゼデキヤ王が、エレミヤを死刑にしてくださいと訴えた役人たちとその立場を同じくしていたとすれ

ば、エレミヤを助けてくれとゼデキヤ王に訴えたエベド・レメクはその訴えを退けられ、何らかの罰則を

与えられたかも知れません。


・つまりエレミヤを助けようとしたエベド・レメクは、自分の身に危険が及ぶかもしれないという状況

で、ゼデキヤ王に、エレミヤを水溜に投げ込んだ役人たちの方が、≪預言者エレミヤにありとあらゆるひ

どいことをしています≫と訴え、エレミヤを助け出すことができたのです。このエベド・レメクの行動

は、神による真実は何かに従って、エベド・レメクが突き動かされて起された行動ではないでしょうか。

そのことによって、エベド・レメクは、自分が神の真実に従って行動しただけではなく、誤った行動をし

た役人たちを諫め、その役人たちの誤った行動を許したゼデキヤ王に罪を犯させることを留めたことにな

るのではないでしょうか。


・今日のテキストでありますエレミヤ書39章15-18節は、そのようなエベド・レメクへ神の救済が約束さ

れたエレミヤの預言であります。この記事の前には、エルサレム陥落の出来事が記されています。その中

には、ゼデキヤ王がバビロン王ネブカドレツアルによって、彼の目の前でその王子たちと貴族たちが殺さ

れ、彼も両眼をつぶされ、青銅の足枷をはめられて、バビロンに連れて行かれたということ記されていま

す。そのエルサレム陥落の出来事を語っている記事の後に、エベド・レメクへ神の救済が約束されたエレ

ミヤの預言が出て来るのです。このエレミヤの預言は、エルサレム陥落の前に、エレミヤが監視の庭にい

る時に与えられた主の言葉(預言)で、「かつてエレミヤを救出したエベド・レメクに宛てた言葉です。

内容は、エルサレムに災いが下るとの預言の確認と、それにもかかわらず、エベド・レメクが主を信頼し

たゆえに救出されるという約束です」。木田献一さんは、「この言葉は、ゼデキヤ王の悲劇的な運命の記

事のあとに置かれていることによって、聞き手にいっそう強い印象を与える」と言っています。確かに39

章を読んでいますと、この箇所でほっとさせられます。


エルサレムが陥落し、ゼデキヤ王もユダの国の民も破滅的な状況に置かれようとする時に、ゼデキヤの

宮廷に仕えていた一人の外国人の宦官に、エレミヤのこのような預言が与えられていたというのです。≪

見よ、わたしはこの都について告げたわたしの言葉を実現させる。それは災いであって、幸いではない。

その日には、あなたの見ている前でこれらのことが起こる。しかし、その日に、わたしはあなたを救い出

す、と主は言われる。あなたが恐れている人々の手に渡されることはない。わたしは必ずあなたを救う。

剣にかけられることはなく、命だけは助かって生き残る。あなたがわたしを信頼したからである≫(29:1

6-18)と。


エレミヤ書を読んでいて、このような言葉を投げかけられるひとりの人がいるということに、何かほっ

とさせられます。エベド・レメクは宦官としてゼデキヤ王の宮廷に仕えていた人ですから、エルサレム

落によって、ゼデキヤ王の宮廷に仕えていた貴族らと共にバビロン王ネブカドレツアルによって殺されて

も、しかるべき人だったかも知れないのです。しかし、彼はエレミヤを助け、神に信頼して行動を起した

人でしたので、エルサレム陥落においても、≪剣にかけられることはなく、命だけは助かって生き残る≫

と神による救済が約束されたのです。


・国家滅亡という破局的な状況の中で、それを引き起こした人々がその破局的な状況引き受けざるを得な

い中で、このエベド・レメクは、その中をくくりながら、破局前も破局後も、一貫して神に信頼して生き

抜くことが許されているのです。神がこのエベド・レメクのようなひとりの人を、エルサレム陥落という

破局的な出来事にも拘わらず、神を信頼して生きた一人の人として、生かして下さっているということ

に、私はこのエレミヤ書の記事を読んで、感動を覚えました。


・その延長線上でイエスのことを思わざるを得ませんでした。イエスも神を信頼して生き抜いた人ではな

いかと思います。しかし、福音書を読んでわかりますように、イエスはエベド・レメクのように≪剣にか

けられることはなく、命だけは助かって生き残る≫ことは出来ませんでした。神はエベド・レメクのよう

な道をイエスにはお与えにならなかったということです。


・ご存知のように、イエスは、十字架に架けられて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てに

なったのですか」と叫びながら殺されていったのです。イエスは、エベド・レメクのように≪剣にかけら

れることはなく、命だけは助かって生き残る≫ことは出来ませんでした。この世で最も小さくされた人々

と共に生き、だれ一人人権が無視され、生活することのできない人はいないのだという、神の支配への信

頼をイエスは貫いて生きた方です。そのイエスが、ローマとユダヤの支配層から疎まれて、最後はローマ

政治犯が受ける処罰である十字架刑に架けられて殺さてしまったのです。


・神はそのイエスを復活させたと、福音書は証言しています。エベド・レメクには≪剣にかけられること

はなく、命だけは助かって生き残る≫道を神は用意されましたが、イエスの場合は、イエスを見棄てて、

神はイエスをピラトによる十字架刑に委ねたのです。イエスは十字架を背負うことによって、同時に、神

を神と思わぬ自己中心的な人間の不信仰、その罪を背負って、死んでいったのです。神は、そのイエス

十字架死によって、イエスを殺害し、イエスのような存在を許容しない人間の高ぶりとその的外れな罪の

現実そのものを、イエスの死と共に抹殺したのです。これが聖書の言う贖罪ではないかと思います。そし

て神はイエスを復活させて、私たちすべてに、イエスの復活による新しい生を、死に打ち勝つ永遠の命へ

の道を切り開いてくださったのです。


・最後に、そのことについて記していますパウロの言葉をもって終わりたいと思います。第2コリント5

章14節以下で、パウロはこのように語っています。≪・・・わたしたちはこう考えます。すなわち、ひと

りの人がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方

はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生

きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。・・・だ

から、キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新し

いものが生じた。・・・つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うこ

となく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておら

れるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神

と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいまし

た。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(5:14-21)。


・ですから、わたしたちは、宗教的に神に助けを求めるのではなく、神を信じ、神無しに成人した者とし

てキリストの使者(イエスの仲間)の務めを果たしいくのです。わたしたちに神の救済が用意されている

とすれば、その道以外にはないのではないでしょうか。わたしには、そのように思えてなりません。その

意味で旧約の人エベド・レメクを超えて、わたしたちは新約の人に与えられている救済の道を歩むように

と、招かれているのではないかと思います。


・この死に打ち勝った復活の命への道が、今ここでの状況において、どこに見出されるかをよく見極め

て、それぞれに与えられているその道に従って歩んで参りたいと願います。


・主による助けを祈り求めつつ。