「最後の会見」エレミヤ書38:14-28、2018年7月29日(日)船越教会礼拝説教
・今日は「最後の会見」という説教題をつけました。ゼデキヤ王とエレミヤが向かい合って話をした、その
最後の会見という意味です。
・エレミヤ書を見ますと、この最後の会見を記していますエレミヤ書38章14節から28節に続く39章1節以下に
は、新共同訳聖書の表題「エルサレムの陥落」とありますように、バビロン王ネブカドレツアルが全軍を率
いて、エルサレムを包囲し、ついにエルサレムを攻略し、破壊したことが記されているのであります。その
時、ゼデキヤ王は逃げますが、カルデヤ軍に捕らえられて、ネブカドレツアルの下に連行されます。ネブカ
ドレツアルは、ゼデキヤの目の前でその王子たちを殺し、ユダの貴族たちもすべて殺したのです。ゼデキヤ
に対しては、ゼデキヤの両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行ったのです。一方エレ
ミヤは、ネブカドレツアルによって手厚くもてなされます。ネブカドレツアルは部下に命じて、エレミヤに
害を加えてはならないこと、エレミヤが求めることは、何でもかなえてやるように命じます。その後エレミ
ヤは釈放されて、ユダの国の残留民と共にエジプトに行くことになります。
・このようにこの最後の会見以後、二人が会うことはありませんでした。このゼデキヤ王とエレミヤの最後
の会見も、ゼデキヤ王の方が望んで設定されたものです。警備隊の詰め所とでも言うべき「監視の庭」に留
置されていたエレミヤを、使いを遣わして、ゼデキヤ王は自分のいる所に呼んでこさせます。そしてエレミ
ヤに、≪あなたに尋ねたいことがある。何も隠さずに話してくれ≫(38:14)と言います。このゼデキヤ王の
言葉は、直訳しますと、【私はあなたに言葉(ダーバール)についてたずねたい。言葉を私から隠さないで
ほしい】となります。
・ゼデキヤ王は、既にエレミヤから言葉を聞いているのです。その言葉とは、「バビロンに投降し、生き延
びよ」という内容でした。しかし、ゼデキヤはどうしても、預言者エレミヤの言葉に従って、バビロン投降
を選べないでいたのです。何故ならゼデキヤ王の役人たちの多くは親エジプト派だったからです。もじ自分
がエレミヤの言葉(預言)を受け入れて、バビロン投降を選んだとすれば、親エジプト派の役人たちが黙っ
ていないだろうと、ゼデキヤは考えていたに違いありません。決断ができないまま、ゼデキヤはもう一度エ
レミヤと会うことにしたのです。
・そして、【私はあなたに言葉(ダーバール)についてたずねたい。言葉を私から隠さないでほしい】と、
エレミヤに言ったのです。エレミヤは、こう語るゼデキヤ王の中に、今までとは違う気迫を感じたのかも知
れません。直ぐには答えようとしませんでした。そしてこう言ったのです。≪「もし、わたしが率直に申し
上げれば、あなたはわたしを殺そうとされるのではないですか。仮に進言申し上げても、お聞きになりま
すまい」≫(15節)と。
・するとゼデキヤ王は、エレミヤにこう言って、殺しはしないと約束します。≪「我々の命を造られた主に
かけて誓う。わたしはあなたを決して殺さない。またあなたの命をねらっている人々に引き渡したりしな
い」≫(16節)と。
・このエレミヤとゼデキヤの問答からしますと、ゼデキヤも優柔不断ですが、エレミヤも、神から託された
預言の言葉を、ここで語ったら、自分の身に危険が及ぶのではないかという逡巡があり、弱さを抱えていた
ことが分かります。エレミヤ書の中には「エレミヤの告白」と言われる記事があります(20:7以下他)。
そこからうかがうことができる預言者エレミヤの姿は、迷いを知らない預言者の姿ではなく、弱さを負い
つつ苦悩する人の姿です。
・イエスもまた、十字架を前にして、ゲッセマネで祈り、弟子たちに≪わたしは死ぬばかりに悲しい。こ
こを離れず、目を覚ましていなさい≫(マルコ14:34)と言われ、≪少し進んで行って地面にひれ伏し、で
きることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは
何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、
御心に適うことが行われますように。」≫(同14:35,36)と祈られました。
・神の言葉を語り、神の御心に従って生きるときに、自分の身に苦難が及ぶことが分かっていて、迷わず平
然と人は生きることが出来るのでしょうか。苦悩しつつ、それでも神の言葉を語り、神の御心に従って生き
ざるを得ない。それが「不信仰なこの私をお助け下さい」と祈りつつ、神に従う信仰なのではないでしょうか。
・「わたしはあなたを決して殺さない。またあなたの命をねらっている人々に引き渡したりしない」という
ゼデキヤの言葉を聞いて、エレミヤはゼデキヤに、今まで語って来た預言と同じように、「バビロン軍に敗
れることは避けられないから、むしろ進んで投降することによって、生き残る道を選べ」と言います
(17,18節)。
・するとゼデキヤは、また言いわけのような理由を挙げて、バビロン軍への投降に躊躇します。自分がバビ
ロン軍に投降すれば、すでにカルデヤ軍のもとに脱走した相当数のユダの人々に引き渡されて、彼らによっ
て自分はなぶりものにされるかも知れない(19節)と。
・エレミヤは言います。≪いいえ、彼らに引き渡されることはありません。どうか、わたしが申し上げる主
の声に聞き従ってください。必ず、首尾よくいき、あなたは生きながらえることができます。もし降伏する
ことを拒否するなら、…必ずバビロンの王の手に捕らえられ、(エルサレムの)都は火で焼き払われます≫
(20-23節)と。
・ゼデキヤ王はエレミヤから言葉を隠さず聞きました。そしてこの二人の会見を聞きつけた役人たちたちへ
の対応をエレミヤに指示して、役人たちがエレミヤを殺すことのないようにし、二人の最後の会見は終わり
ます。
・こうして折角の会見も、ゼデキヤの決断を生み出し得ず、事態はいよいよ破局へと向かうこととなります。
・このゼデキヤ王とエレミヤの最後の会見から、私たちは何を聴くことが出来るのでしょうか。
・第一に、エレミヤに預言を語る使命が与えられていたように、私たちの教会にも預言者的使命が与えられ
ているということです。エレミヤはユダの国の王であるゼデキヤに、「バビロンに投降して、生き延びよ」
という預言を語ることによって、ユダの国とユダの人々が、バビロンとエジプトという覇権主義的な大国の
狭間でどのような道を選ぶべきかを語りました。このエレミヤの預言活動は、現代に置きか敢えて言えば、
国家や社会に対する教会の具体的な働きかけを意味するでしょう。
・6月開催の神奈川教区総会で、【天皇の「退位」「即位」に伴う儀式において、日本国憲法に記された主
権在民を徹底し、政教分離原則を厳格に遵守すること、とくに大嘗祭など一連の神道儀式に対して国費を
支出しないことを日本政府に要請する件】という議案が可決しました。神奈川教区は教区総会の総意で、
天皇の「退位」「即位」に関して、政府にこのような要請文を出したのです。これも国家や社会に対する
教会の具体的な働きかけの一つです。
・教会はそのような働きかけと共に、国家や社会が一人ひとりの人権と生活を守って正義が貫かれるよう
に、また平和と和解に満ちた国家や社会になるように祈る務めが与えられているのではないでしょうか。
これは教会の祭司的使命と言われているものです。
・ゼデキヤとエレミヤの最後の会見から、私たちが聴くことのできる第二のことは、エレミヤがゼデキヤ
王に預言を語りましたが、そのエレミヤの言葉はゼデキヤによって拒絶されたということです。
・エレミヤはゼデキヤに、【私はあなたに言葉(ダーバール)についてたずねたい。言葉を私から隠さな
いでほしい】と請われた時に、≪「もし、わたしが率直に申し上げれば、あなたはわたしを殺そうとされ
るのではないですか。仮に進言申し上げても、お聞きになりますまい」≫(15節)と言っています。それに
対して、ゼデキヤは、≪「我々の命を造られた主にかけて誓う。わたしはあなたを決して殺さない。また
あなたの命をねらっている人々に引き渡したりしない」≫(16節)と約束しています。その上で、エレミ
ヤが預言の言葉を語ったということは、エレミヤはその言葉を命懸けで語ったことを意味します。そのよ
うに命懸けで語った言葉が、結果的にゼデキヤによって拒絶されてしまったのです。
・そのことは、教会が預言者的使命をもって、国家や社会に具体的に働きかけても、その教会の働きが、
国家や社会によって受け止められることもあるかも知れませんが、多くの場合は受け止められずに拒絶さ
れてしまうということではないでしょうか。人間は自らを含めてそんなに良くはありません。本当は命に
至るのですが、その厳しい道を避けて、その道が破滅に繋がるかも知れないと、何となく感じつつも、楽
な道を選んでしまうものです。ゼデキヤもそうだったのではないでしょうか。
・エレミヤの預言はゼデキヤによって結果的には拒絶されました。けれども、エレミヤの預言の言葉「バ
ビロンに投降し、生き延びよ」は、ゼデキヤはそれを拒絶しましたが、バビロンに連れていかれた捕囚の
民によって担われたのではないでしょうか。預言者エレミヤを通して、神に託された預言を、たとえそれ
が拒絶されても語り続けることの大切さを教えられます。エレミヤによって語られた神の言葉は、思わぬ
形でその言葉に応答する者を呼び起こすに違いないからです。
・最後にイエスの山上の説教の一節(マタイ5章13-16節と、テモテへの手紙二4章1-5節を読んで
終わりたいと思います。
・マタイ5:13-16、≪あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何に
よって塩味が付けられよう。もはや、何の役も立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ
である。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をと
もして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あ
なたがたの天の父をあがめるようになるためである≫。
・テモテへの手紙二4:1-5、≪神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られる
キリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさ
い。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。
だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好
き勝手に教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたが
たは、どんな場合にも身を慎み、苦しみに耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさ
い≫。
・祈ります。