なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(51)「信・不信」10:31-42

3月10(日)受難節第4主日礼拝   

 

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる」。

                    (イザヤ書55:6,7a)

③ 讃 美 歌   151(主をほめたたえよ)

https://www.youtube.com/watch?v=eAWmu34gW2k

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編2編1-12節(讃美歌交読文5頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書10章31-42節(新約187頁)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌      487(イエス、イエス

https://www.youtube.com/watch?v=jsD7eSwD4AM

⑨ 説  教   「信・不信」           北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

ヨハネ福音書では特に、イエスが語られた後で、必ずと言ってよいほど、それにつての賛否の分争が起こったということが記されています(9:16,10:19)。分争は時には激しく、むきだしの敵意の表現を伴います。/特に今日の箇所で、ユダヤ人たちの憤激をかり立てたのは、「わたしと父は一つである」(30節)というイエスの言葉でした。

 

それはユダヤ人たちにとっては、「神を冒瀆する言葉」であり、「人間であるのに自分を神としている」(33節)ことになるので、その罪は重大であると考えられたのです。神を冒瀆する者の受けるべき刑罰は、石打の刑でした。そこで、「ユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた」(31節)のです。

 

ここに<また>とありますが、8章の59節でも<ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした>とあるからです。

 

このユダヤ人たちのイエスに対する怒りには、神を信じると言われる人の宗教的な情熱のようなものが感じられます。自分たちは正しく、熱く神を信じているという彼らの宗教的な情熱です。ある種の熱心さです。そういう宗教的な情熱を強く持っている人は、えてして自分たちの神理解と違う人に出会うと、その人を否定し、攻撃し、場合によっては裁くのです。ファリサイ派ユダヤ人たちはそのような宗教的な情熱を持った人たちでした。

 

彼らは、イエスが語ること、為すことに接して、イエスが、彼らが信じている神を冒瀆していると思ったのです。ですから、神を冒瀆する者は石打の刑に処すべきであるという律法に従って(レビ記24:16)、「ユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた」(31節)のです。

 

しかし彼らはここで大きな錯誤におちいっていました。それは律法を重大なものと考えるあまり、生ける神の言葉をこまかい律法の条文と形式の中に閉じこめてしまって、その結果として、神が、今、ここで、イエスを通して自由に語りかける、その神の語りかけに耳を開いて聞く心を閉じてしまったということです。そのような彼らに、イエスは「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない」(25節)と言っています。彼らは、イエスが語られた教えによっても、イエスがなされた業である奇蹟によっても、少しも心を動かされることはありませんでした。彼らは、死せる律法の条文と形式を、生ける神と取り違えてしまったのだといえましょう。そこに律法主義のおとし穴があります(森野善右衛門)。

 

私たちの信仰がファリサイ派的な律法主義に陥っていないかどうか、自己吟味する必要があると、私は思っています。私は教団の中で「信仰告白と教憲教規の遵守」を強調する主張を聞くたびに、イエス・キリストが語る生ける神の言葉は信条や規則の中には納まらないのではないかという疑問を持ってしまいます。お互いの持っている信仰が、聖書に記されているイエスの生涯と十字架と復活の出来事に照らしてふさわしいものであるかどうか、吟味し合うことは大切だと思います。その際規準はイエスの出来事であって、信条や規則ではありません。そういう意味で、私たちは、ここでイエスを石打の刑にしようとしたユダヤ人たちの律法主義的な信仰理解に陥らないようにしたいと思います。

 

さて、「イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた」ユダヤ人たちに対して、イエスは、自分がしたどのような業のゆえに、私を殺そうとするのかと問われます(32節)。ユダヤ人たちは、「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」(33節)と答えました。

 

それに対してイエスは、「律法」すなわち旧約聖書詩編82編6節の「わたしは言う、あなたがたは神々である」という言葉を引用して、世につかわされた者〔すなわちイエス御自身〕が「わたしは神の子である」と言ったからとて、どうして「あなたは神の汚す者だ」と言えるのかと、反論されます(34-38節)。

 

<そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない>(34-35節)。

 

エスがここで引用している「あなたたちは神々である」という言葉は、神の裁きについて記されている詩編82編の中にあります。詩編82編1節に<神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる>とあり、そしてこの神の裁きについて語る詩編では、最初にこのように言われています。<いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。/弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。/弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ>(2-4節)。そして続けて、<彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。/地の基はことごとく揺らぐ>(5節)と歌われています。

 

つまり、この人間社会は不正な裁きが行われていて、弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出すことができないで、この世は闇の中にあって破滅的だと言っているのです。まさに今の世も同じです。その上で、この詩編ではこのように語られているのです。<わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆いと高き方の子らなのか」と。/しかし、あなたたちも人間として死ぬ。/君侯のように、いっせいに没落する>(6-7節)。そして最後の8節で、<神よ、立ち上がり、地を裁いてください。/あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう>と記されています。<あなたはすべての民を嗣業とされる>ということは、「神はすべての民をご自分のものとされる」ということです。

 

この詩編の詩人は、人間が神に造られた存在であり、神は人間を通してご自身がいかに憐れみ深い方であるかを示そうとされているのに、人間はその神に逆らって不正を行っているという現実に直面して、神の裁きを語っているのです。その中で、神からの問いかけとして、「あなたたちは神々なのか/皆いと高き方の子らなのか」と言われているのです。つまり私たち人間は神の作品であり、神と一体であり、神の子らではないかと言われているのです。私たち人間は、弱く小さな者ですが、そのような者である私たち一人ひとりを通して神が生きているのだということでしょうか。そのことが、35節で<神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている>と言われているのです。

 

そのような詩編の一節を引用した上で、イエスはこのように語っています。<それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行なっていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」>と(36-38節)。

 

ユダヤ人は、イエスの行なっていることに注意しなければなりません。<もし、わたしが父の業を行なっていないのであれば、わたしを信じなくてもよい>(37節)と言われていますように、もしイエスの行なうことが、単なる人間の業にすぎず、自己の人間的意志が得ようと求めている、弱い人間の力に可能な程度のことなら、ユダヤ人は、何もイエスを信ずることはないと言うのです。

 

<「…しかし、(父の業を)行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」>(38節)。

 

ユダヤ人には、イエスを信ずることがゆるされています。彼らは、イエスの心を洞察し、その心に偽りや邪悪の住んでいないことを知ることがでたのです。彼らは、イエスの言葉に捕えられ、そのうちに輝く、明るい輝きに身をゆだねることができたのです。しかし、もし彼らが、そのイエスの言葉に逆らうなら、さらにもう一つ、第二のより強い証人であるイエスの業が彼らのところにきて、彼らを真理に導き、神の恵みを認識できるように導いたはずです。もし彼らがそれをも拒否するなら、彼らを救うものはありません。ただ彼らを裁く判決が残るだけです、「あなたがたは、私の手に属さない。あなたがたは、神の所有ではない」と。

 

エスの業によって呼び起こされる信仰によって、ユダヤ人は導かれるべきでありました。イエスと神との永遠の内的結びつきが、イエスを彼らのための羊飼いとして遣わされていることを知るべきでした。その時、彼らは、神がイエスにとどまり、イエスを導き、イエスの中に住み、たえず現臨してイエスを取りまくことを、信仰と確信を得るような形で認めることができたでしょう。しかし、ユダヤ人は、イエスを神を冒涜する者としてたいへん怒り、イエスにとって状況は大変けわしいものになったのです。

そこでユダヤ人たちは、イエスを捕えようとしますが、イエスは、その手を逃れて去って行かれます(39節)

 

最後の40-42節の短い段落には、以上のようなユダヤ人たちとの対論の後、イエスがヨルダンの向う岸に移られたこと。人々が、ヨハネがイエスについて言ったことは皆本当であったと、語り合ったこと。そして多くの人々が彼を信じたということが、記されています。

 

かつてヨハネが最初の頃、民に洗礼を授けていた地方に、なおイエスについてのヨハネの証しの記憶が生きていて、それは、イエスを信ずる信仰に多くの者を導く助けとなったと言うのです。こうしてイエスの生の歩みの中で繰り返し、イエスがその奉仕をむなしく行なっていたのでないことを、イエスに経験させる、励ましもあったのであります。イエス自身、種まく人のたとえではっきり語っているとおりのことが起こりました。「多くの種粒は駄目になった、しかし、百倍の実りが豊かにもたらされた」(マタイ13:18-23)とあるように。

 

このように今日のところには、不正が行われ、弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出すことができないでいるこの破滅的なこの世に到来し、神の救済(人間解放の出来事)をもたらしたイエスに対する、信・不信が語られているのです。そのようなイエスが今も私たちの前に歩んでいて下さることを覚えて、私たちも、ユダヤ人たちの不信に陥ることなく、イエスにおける神の現臨を信じ、イエスの言葉と業がもたらす人間の救済を信じて、イエスに従って歩み続けたいと願います。

  

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、あなたは私たちを、アダムとイブの末裔として、私たちの交わりを通してあなたの愛を現すものとしてお造りになりました。しかし、現実の私たちは、あなたに逆らい、カインとアベルのように兄弟殺しになってしまいました。
  • そのような私たちを、あなたはイエスを遣わしてくださって、あなたの愛を現す本来の私たちに回復してくださいました。どうかこの福音を大切にして、私たちが生きていくことできますようにお導きください。
  • ウクライナやガザでの戦争をはじめ、軍事支配や民族紛争が、一刻も早く終結しますように。
  • 差別や貧困、気候変動や地震などの自然の災害で苦しむ人々に救済の手が添えられますように。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩ 讃 美 歌   455(神は私の強い味方)

https://www.youtube.com/watch?v=oS6OWg5T_a0

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑰ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。