なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

平和聖日(8月6日)説教「隣人」ルカによる福音書10章25-37節

8月6(日)聖霊降臨節第11主日(平和聖日)礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌     561(平和を求めて)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-561.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編122編1-9節(讃美歌交読文142頁)

⑥ 聖  書  ルカによる福音書10章25-37節(新約126頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    494(ガリラヤの風)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-494.htm

⑨ 説  教   「隣人」          北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日は平和聖日であり、広島に原爆が投下された日です。8月は特に、私たちの国がかつて行った戦争を振り返り、平和を創り出す者として、私たちが今をどう生きるかが問われていると思います。そのことを考えながら、何時も扱っていますヨハネ福音書からではなく、聖書日課の平和聖日の箇所の一つである、先ほど、読んでいただきました聖書の箇所、善きサマリア人の譬えから、語りかけを聞きたいと思います。

 

この譬えは、皆さんもよくご存じだと思いますが、まずこのイエスの譬えの全体の流れを、物語にそってみておきたいと思います。

 

まず、この聖書に出てくる律法学者は、旧約聖書ですが、聖書の中に隣人愛の戒め、掟が書かれていることをよく知っていたと思われます。しかし、それをイエスによって「実行しなさい」と言われたときに、この律法学者は、「わたしの隣人とは誰ですか」とイエスに訊き返しました。律法学者にとっては、隣人とはすべての人ではなかったからです。すなわち、隣人と呼べる人はどの範囲の人なのか。ここからあちらまでの人が自分の隣人で、そこから先の人は違う、場合によっては敵であるという様に、人間と人間とをある線で分けて「隣人」と「敵」という風に考えていたのでしょう。そこで、「わたしの隣人とは誰ですか」と、イエスに訊いたのです。

 

この「わたしの隣人とは誰か」ということは、私たちも自分で勝手に決めているところがあるのではないでしょうか。いろいろなことを要求されたり、期待されたりしたときに、一体どこまでやればよいのか、きりがありませんので、そのやる範囲を自分で決めたり、人に教えてもらったりしています。果たすべき自分の責任は、ここまでなのか、それ以上なのか、或いは自分の義務はここまでとか、それ以上は自分の義務ではない、とかのように、わたしたちも、「わたしの隣人とは誰か」ということで、ガイドラインのようなものを引いているのではないでしょうか。

 

そのように、この律法学者は、どこまでの人が自分の隣人なのか、ということをイエスに訊いたのです。するとイエスは、この善きサマリヤ人の譬えの話しをされたました。

 

このイエスの譬えには、エルサレムからエリコの街道を通っていく途中、追いはぎにあい、傷ついた旅人が出てきます。エルサレムからエリコの街道には、よくこのような追いはぎや強盗が出ていたと言われていますから、このような旅人がいたということがユダヤの人には、よく分かっていたことだったと思います。

 

通りかかった祭司やレビ人、これはエルサレム神殿に仕える職業専門家、宗教家です。ですから、本来、エルサレム神殿は神さまの宮ですので、神さまのことを最も大切にしている筈の人です。この二人は、傷ついた旅人を傍に見ながら、全く無視して通り過ぎていきました。もちろん理由があったと思います。神殿は聖なる清い所なので、そこで様々な儀式に携わる祭司やレビ人も清くなければなりません。血だとか死体だとかに触ると、汚れると当時のユダヤでは考えられていました。旅人は追いはぎに襲われ傷ついて倒れていますから、血に触れてしまったり、場合によっては、その旅人が死んでしまったりしたならば、死人に触れたことになり、この祭司もレビ人も汚れた者となります。ですから、彼らが傷ついた旅人を見て、助けないで通り過ぎたのは、神殿での聖なる奉仕ができなくなることを危惧したのかも知れません。それなりの理由があったのだ、と思います。

 

最後に通りかかったサマリヤ人は、この人を見て深く憐れんで、応急手当をして自分のろばに乗せ、宿屋に連れてゆき、宿屋の主人に介抱を頼み、なにがしかの治療代を主人に与え、費用がもっとかかったら、帰りがけに払いますと言って、この傷ついた旅人を宿屋の主人に託して、また旅に出ていったと記されています。

 

このサマリヤ人は、イスラエルの民族に属しますが、イスラエル民族は統一王国でしたが、ソロモンの時代以降は北と南に分裂しました。サマリヤ人は北王国のイスラエル人です。紀元前720年代にアッシリアに滅ぼされてしまいましたが、その際北王国のイスラエル人は、アッシリアの人達の様々な習慣、風習にそまってしまったのです。ユダヤ教とは違うアッシリアの様々な宗教にも影響を受けており、おそらく結婚もイスラエル人同士の結婚ではなく、アッシリア人との結婚もあったと思われます。つまり、南のユダヤ人は、血の純潔ということを非常に大切に考えていましたので、北王国のサマリヤ人は純粋なユダヤ人の血、イスラエル人の血を継いではいない、途中で混合してしまったということで、同じイスラエル人の仲間ではありますが、南のユダヤ人たちは極端に北のサマリヤ人を嫌っていました。

 

ですから当然、ユダヤ人にとってサマリヤ人は、隣人には入りません。多分、追いはぎにあって傷ついて倒れていた旅人は、そのサマリヤ人からすると犬猿の仲だったユダヤ人だったと思われます。しかし、このサマリヤ人にとっては、この倒れている人がどのような人であるかは、殆んど問題ではなかったのです。彼にとってはまた、「隣人を愛せ」という掟も、このときには殆んど問題ではなかったと思われます。つまり、倒れて唸っている人が傍にいるのですから、傷ついて呻いて、喘いでいる人の痛みを、人ごととは思えなかったのでしょう。自分の痛みのように感じられていたのではないでしょうか。ですから、サマリア人としてはできるだけの介抱をして、宿屋に連れてゆき、宿屋の主人にお金を渡して、頼んでいったということだと思います。

 

民族とか考え方とか、あるいは、人種・性別とかの違いは、傷つき苦しんでいる旅人を前にしたときに、このサマリア人には全く問題ではありませんでした。この苦しんいる旅人の痛みへの共感が、その旅人を隣人として助ける行為へとサマリア人を促していったのではないかと想像します。

 

この「痛みへの共感」ということは、「平和」ということに大いに関係があるのではないでしょうか。

 

痛みへの共感を失ったときに、空の上からであったとしても、原爆を投下してしまうことができると思います。しかし、地上にいる人たちにこの爆弾が落ちたとき、どうなっていくのか、どれほどの苦しみが生ずるのかという共感が、もし失われていなかったとしたら、人はそれを落すことはできないでしょう。軍隊ですから、そのような共感を失う訓練をたくさんさせられ、自分が殺される側の人間になったらどうだろうかという、同じ人間としての痛みへの共感を持てない人間にさせられるのでしょう。人殺しをする機械のような兵隊に作られていくからこそ、爆弾を落とすことができるのだと思います。

 

先日東京新聞に、岐阜に焼夷弾を落とすためにB29を操縦し、日本軍の攻撃を受けて乗っていたB29が損傷を受けて、何とかグアムの米軍基地までそのB29を操縦してたどり着くことができた米軍兵士が、戦後平和運動に力を注いだという記事が載っていました。この米軍人は、自分が死にそうになった経験をして、戦争に反対するようになったのだと思います。

 

アメリカの海兵隊の訓練は、本当に非人間的な訓練を積み重ねて、わたしたち人間のもつ感性を殆んど麻痺させる訓練だといわれていまが、事実そうなのでしょう。人の痛みへの共感をわたしたちが失うことなく、他者である隣人との関係において、それを大切にしていくことができるのならば、大きくそのことが「平和」に繋がっていくように思います。

 

わたしは、このルカの「善きサマリヤ人」が、何故この平和聖日のテキストに選ばれたのかを、いろいろ考えてみましたが、多分、そこにおいて繋がっていくのではないかと思いました。

 

この物語の中では、イエスは、「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と問いかけました。そのときに、律法学者もさすがに当然「サマリヤ人」だと分かるのです。だから、「行って、あなたも同じようにしなさい。」とイエスは言います。この譬え話をわたし達が理解するときに、この最後の言葉がたいへんに際立っています。この「行って、あなたも同じようにしなさい。」というイエスの言葉を聞いて、何か「自分がやらないといけない」というような倫理とか、道徳の問題として捉えることが多いと思います。そうではなく、それ以前に、「痛みの共感」ということが、この物語の中心ではないでしょうか。ですから、岩波訳の聖書では、表題の「善きサマリヤ人の譬え」とは書かれていますが、その注に、「この物語の主人公は、サマリヤ人によって助けられた男の話」だと、むしろ、傷ついた旅人がこの物語の主人公だというように解説を加えています。

 

事実、そうではないでしょうか。痛みがあるからこそ、イエスのところに訪ねて来たり、助けを求めたりして来た人がいたからこそ、イエスはその人の痛みに共感し、その人を癒し、奇跡をおこなったのだろうと思います。ですから、どちらが主人公だ、ということは言えない面があります。イエスが主人公だとしても、イエスが倫理・道徳的に優れていたからというよりも、むしろ真の人間として他者の痛みへの「共感の力」を豊かに持っていたからではないでしょうか。そこに奇跡的な癒しが起こったのは、イエスの父である神も、痛み苦しむ人間をそのまま放置される方ではないことの現れではないでしょうか。 

 

「善きサマリヤ人」の物語は、苦しみに無関心でいられないイエスご自身を暗示しているのではないか、という人がいます。イエスは、わたしたちの弱さ故に、傷つき倒れるわたしたちの隣人になってくださいました。そして、わたしたちを癒し、力づけてくださいます。わたしたちが立ち直って再び歩けるようにしてくださいます。おそらく、わたしたちが信仰生活の途上で、徹底的にイエスと出会うことがあるとすれば、このような経験をとおしてではないでしょうか。

 

エスは、わたしたちの心の深みまで分かってくださる方だと、この人と一緒に生きていくことができるならば、ちょっとやそっとの苦しみであろうと、悲しみであろうと乗り越えられるのではないかと思います。そのような力強いものをイエスには感じることができます。

 

そのイエスは、今も痛みをもった様々な人の叫び、呻きに敏感に感じて働いている方ではないでしょうか。わたしたちはそのことを思えば思うほどに、善き隣人になれとかいうことではなく、このサマリヤ人のように痛みを持った人々と共に応えて生きていく力が、相手から与えられる、そこにイエスの命の力が働くと思います。神が現実の世界で働いてくださるとするならば、そのようなことではないでしょうか。

 

 

あるユダヤ教のラビは、『何故、人は苦しむのか』という本の中で、神は助けてはくれない、でも一緒に悲しんでくれる、そのことがわたしたち苦しむものの大きな助けであり、励ましである、と書いていますが、まさにそのようなことではないかと思います。

 

わたしたちも、その痛みへの共感へと押し出されていく、押し出されていかざるを得ないものを、イエスをとおして感じます。周りの人をその人として、心の深い叫びに敏感に、お互いに自分の感性が鈍感にならないで、他者との関わりを大切にしてゆく時には、そのようなことをそれぞれ生活の中で起こるのではのではないでしょうか。

 

「平和」は大きな事柄や、政治、社会体制に結び付きますが、と同時に、日常の世界の中でわたしたちが「平和」を大切にし、「平和」を創り出していくということがどのようなことかを、この「善きサマリヤ人」の物語は、わたしたちに示してくれているのではないかと思います。他者である隣人の痛みへの共感をベースに、私たちが共に生きていくときに、そのことが世界の平和に結びついていくことを。

 

それでは、ひと言お祈りいたします。

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日は平和聖日です。また広島に原爆が落とされた日でもあります。この8月は日本が戦争をしかけ、アジアの国々を侵略し、敗戦を経験したことを、特に想い起させてくれる月です。神さま、昨日も平和集会で侵略された側の人間の痛みについてお聞きしました。私たちの国が侵略した反省を十分にしないまま、在日の方々に今も様々な権利を剝奪していることを思います。しかもヘイトの行動も各地で起きています。そのような日本の国の姿勢を正していく力を私たちに与えてください。
  • また、どんな国や民族の人であろうと、身近な他者である隣人との関係において、他者の痛みへの共感をベースに共に生きてい行くことができますように、私たちにその力を与えて下さい。
  • 今もロシアによるウクライナへの軍事侵攻をはじめとして、世界では戦争が行われています。神さま、その戦争が一刻も早く終結し、平和な世界となりますように私たちをお導きください。
  • 様々な苦しみの中にある方々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

⑩     419(さあ、共に生きよう)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-419.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。