なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(588)

船越通信、№588、2023年10月29日(日)北村慈郎

  • 22日(日)は礼拝後、京急田浦駅前での「ウクライナに平和を!」のスタンディングに行きました。この日礼拝出席者は6人で、スタンディングには一人は参加できませんでしたが、礼拝には出られませんでしたが、スタンディングに参加して下さった方が一人いて、スタンディングの参加者は6人でした。そのうちの一人は今回が初めての参加でした。いつもスタンディングでは率先して通る人に声をかけてくれるNさんが、今回はご都合があり参加できませんでしたが、みんなで「ご支援をよろしくお願いします」と通る人に声をかけて、今回のスタンディングも無事終えました。最初この日はカンパしてくれる人がいないのではと思っていましたが、終わるまでに4人の方がカンパしてくれました。このスタンディングのカンパは、教会でのカンパと共にユニセフを通してウクライナの子どもたちのために送っています。その作業はNさんがして下さっています。
  • 21日(土)夜に会計のHさんからメールが来て、22日(日)自分は礼拝に出られないが、礼拝出席者で船越教会の平和センター基金から緊急にガザのパレスチナ人への支援カンパができればと思うので、礼拝後みんなで話し合って、了解されれば、すぐ振り込むようにしますが、という連絡がありました。Hさんはご自分では国境なき医師団にカンパしたそうですが、私は送り先を含めて、11月の役員会で検討してからにしましょうと、返信しておきました。11月の役員会は12日になりますが、そこで決めたいと思っています。
  • ウクライナにおけるロシアによる軍事侵攻によって始まった戦争が、もう1年8か月が過ぎています。まだまだ終わりそうにありません。今度はイスラエルパレスチナの戦争が始まってしまいました。ハマスによるイスラエルへの攻撃に端を発し、イスラエルハマスの支配するパレスチナ自治区ガザへの軍事侵攻を辞さないと、その備を進めています。もういつでも軍事侵攻できる状態なのでしょうが、先ずはガザのパレスチナ住民への人道支援を訴える世界の声が強く、まだ軍事侵攻に至ってはいませんが、空爆は続いており、バレスチナこの住民の被害が拡大しています。このパレスチナイスラエルの戦争も、ウクライナとロシアの戦争同様、背後には現在世界に存在する覇権国家による代理戦争という様相を呈しています。パレスチナイスラエルの戦争には、イランとアメリカが背後にあるようですが、アメリカはウクライナとロシアによる戦争でもその背後にあり、アメリカの覇権主義には辟易としてしまいます。アメリカがイスラエルを支援するのは、アメリカに在住するユダヤ系住民とキリスト教ファンダメンタリストが全住民の30パーセントを占めていることを理由に上げている報道が多いように思われます。キリスト教ファンダメンタリストキリスト教絶対主義者で、イスラム教をはじめた他宗教との対話を求めないということでしょうか。私は、イエスを信じる者はキリスト教も相対化しなければならないと思っていますので、キリスト教ファンダメンタリストの人たちのことを理解はできますが、同調はできません。「わたしは仕えられるために来たのではなく、仕えるために来た」というイエスを信じる者は、上に立って人を支配するのではなく、人に仕えることによって、互いに支え合う人間の共同性を大切にしていかなければならないと思います。
  • この週は先日大網の関田先生のお宅に伺って、先生の蔵書の中から1冊だけ記念にいただいてきた、福嶋揚著『カール・バルト破局の中の希望』を読了しました。この本には殆どすべてのページに関田先生が引いた線があり、ここは重要であるというところにはその上に時々〇印も付けてあり、文中の単語にも丸が付けられています。相当読み込んだという感じです。私は数日をかけて、先ず一気に読み終えました。これからじっくり読んでいきたいと思っています。私はこの本を読んで、福嶋揚さんのバルト神学への理解に共感を得ました。それは、バルトの福音理解はその射程が教会と共に市民社会まで及んでいるという点です。そのことは、この本の「はじめに」の最初の所に記されている以下において明らかです。

【「死から生へ」(Ⅰヨハネ3:14)という言葉によって表される運動、バルトの思想全体を本書ではそう捉える。それは、死と罪悪と災禍によって限界づけられた生命が、己の彼岸から開示される「永遠の生命」という、人為が実現不可能な極点へと方向づけられ導かれる、終わることのない運動と闘争である。「死から生へ」という運動は、新約聖書においては十字架の死から復活の生命へと転じたイエス・キリストにおいて表象される。それは同時に、死と罪悪と災禍に支配された現実が、生命と公正と平和に満ちた未来へと向かう運動の、原像であり源泉だということである。/本書はまた、現代においてキリスト教の思想的土台を模索する試みでもある。地球市民社会の一構成要素として、キリスト教世界観が自らの伝統と本質に根ざしつつ、どのような貢献をなしうるか。土台なき相対主義にも、排他的な絶対主義にも陥らない、第三の道はいかにして可能か。そのような問題意識のともに、キリスト教の壁の内側と外側とに向かって同時に発せられる、一つの言葉となろうと試みている】(Ⅰ-2頁)。

  • 私は少し最近いろいろな意味で停滞気味になっていると感じていて、関田先生のように90歳過ぎても「目はかすまず気力はうせず」にはとてもなれないと思っていました。しかし、福嶋揚さんのこの本を読んで、もうひとがんばりできるのではないかと、思えています。
  • 26日(木)も国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに行きました。この日も国会会期中ということもあり、私たちの座り込んでいる道路を行きかう人が多くいました。その中に西洋系の外国人の若い男女が、私たちの前を通り過ぎがてら、カンパ箱にカンパ入れてくれました。この日は他にもカンパして下さる方がいて、何時もよりカンパは多く集まったようです。国会前の座り込みのカンパは全額沖縄の辺野古新基地反対のいくつかの運動体に送っています。この日の座り込みは、私を含めた常連の4人に時々見える2人が加わり、6人でした。座り込みの後、私は明治神宮前から副都心線で横浜まで出て、寿地区活動委員会に出て、午後10時過ぎに鶴巻に帰りました。