なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(24)「神と子なるイエス」ヨハネ5:19-23

7月9(日)聖霊降臨節第7主日礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

(ローマ5:5)

③ 讃美歌      16(われらの主こそは)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-016.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文    詩編35編1-10節(讃美歌交読文36頁)

⑥ 聖  書   ヨハネによる福音書5章19-23節(新約172頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     405(すべての人に)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-405.htm

⑨ 説  教   「神と子なるイエス」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日は、ヨハネ福音書5章19-23節から語りかけを聞きたいと思います。

 

エスの癒しが安息日に行われたというので、38年間病気だった人を癒したイエスユダヤ人たちは弾圧するようになりました(5:16)。イエスの癒しの奇蹟は安息日律法違反であり、「自分の床を担いで歩いた」癒された病者も、安息日律法の規定違反に当たると、ユダヤ人たちは主張しているのです。つまり、自分たちが認めている秩序を破るイエスや病人をユダヤ人たちは、秩序を破る者として排除しようとしているのであります。

 

このようなユダヤ人たちと私たちは違うと、私たちは断言できるでしょうか。

 

皆さんも名古屋出入国在留管理局(名古屋入管)の収容施設で、ウイシュマ・サンダマリさんというスリランカ女性が2021年3月6日に亡くなったことは知っていると思います。ウシュマさんは、同居していたスリランカ人男性から日常的に殴る、蹴るなどの暴力を受け、パスポートも取り上げられてしまいました。2020年8月、男性からの暴力から逃れようと警察に駆け込みました。そうしたところ、不法滞在が明らかになり名古屋入管の収容施設に送られたのであります。

 

このウイシュマさんのことで、最近送られてきた『時の徴』167号掲載の、名古屋の東海教会牧師和田芳子さんの「聖書随想」を読んで、私は衝撃を受けました。この聖書随想によれば、和田芳子さんは、福祉関係の仕事をしながら、Cコースを受験して、牧師になった方です。この聖書随想の一部を少し長くなりますが読ませていただきます。

 

「私(和田芳子さん)は、2016年4月から2019年3月末まで東京都女性相談センター(東京都婦人相談所)の所長をしていた。/法務省では毎年、全国から入管職員を集めて研修を行なっている。その中の「外国人のDV」の研修につて、東京都女性相談センター所長が研修講師をすることになっていた。私はその職に3年いたので3回行なった。/研修では、来日した外国人同士の間でも、外国人と日本人との間柄にも、DVは起こっていることを伝えた。そしてDV被害者の心の傷つきについて伝えた。いつも、いつ叩かれるか殴られるかわからないという恐怖におびえ、生きる意欲もそがれていく。DV被害者から解放されたとしても、小さなことで、自分が受けた暴力を思い出して恐怖に陥る。もう暴力を受けないからよかったでは済まされない、それまでの心の傷を抱え続けるのだ。だからDV被害者には理解者が寄り添い、心の回復のためにカウンセリングを受け、適切な医療が必要なのである。そのような援助や治療を受けたとしても、回復には何年も、何十年もかかるのだ。…/そのようなDVを受けた女性は本当に大変で、自分一人で這い上がり、回復し、自立するということは並大抵なことではない。/だから、入管職員には、「DVを受けた」という訴えを聞いたら寄り添ってほしい、味方になってほしい、そして心のダメージの理解をしてほしいと力説した。名古屋の入管の人もいたはずだ。でもそんなのは何にもならなかった。私もウイシュマさんを殺した一人だと思った」。

 

私が衝撃を受けたのは、この最後の「私もウイシュマさんを殺した一人だと思った」という一文からです。これを読んで、この人はすごい人だなと思いました。入管は国の施設です。その収容施設で死んだウイシュマさんの死は、入管職員の不当な対応によるものと思われます。日本の国の「国民」の一人である私たちも、そういう入管収容施設を運営している日本の国家を下支えしているので、ウイシュマさんを殺した側の一人になるわけです。和田さんはそういう自己認識をこの言葉で言い表しているのだと思います。

 

そういうことを考えますと、私たちもヨハネ福音書に出て来る「ユダヤ人たち」と同様に、安息日=入管という制度を護る側にいると言えるのではないでしょうか。そういう意味で、「ユダヤ人たち」同様に、私たちも病者を癒し、病者を生かすイエスを弾圧し、殺そうとする側にいることになるのではないでしょうか。私は改めてそのように思わされました。

 

けれども、38年間病気の人を癒したイエスは、ウイシュマさんのような人を生かそうと今も働いておられるのではないかと信じます。そのイエスの働きを阻害しているとすれば、私たちは「ユダヤ人たち」と同じだと言わざるを得ません。

 

そのような「ユダヤ人たち」(私たち)に対して、イエスは、父なる神と御自身とが一体であることを明言しています。イエスは言われます。「「アーメン、アーメン汝らに告ぐ、子は父が何かをなすのを見るのでなければ、自分からは何もすることができない。父が何かをなせば、その事を子もまたなすのである。何故なら父は子を愛し、自らがなすことをすべて子に示すからである」(19節、20節前半、田川訳)と。

 

17節で、「我が父は今に至るまで働いておられる。私も働くのである」(田川訳)と言われたイエスは、この19節、20節前半でも、そのことを展開されているのです。

 

このヨハネ福音書のイエスの自己証言のような言葉は、ヨハネ福音書のイエス理解が反映されていると見てよいと思います。イエス自身がこのような自己証言を長々と語ったとは考えられません。福音書記者ヨハネは、イエスを「受肉したロゴス(神)」としています。イエスにおいて神が働いているのです。それゆえ、イエスの考え、願い行うことは、神の意志に適っているのであります。イエスは神から離れて、私たち自身のように、自分自身からでるエゴイズムをもって行動しません。それは、イエスには不可能です。もしイエスも私たちと同じようにエゴイズムから行動しているとすれば、イエスはもはや父である神との関係で自分を子として行動することはせず、私たちと同じように命の源そのものを破壊することになるでしょう。

 

しかし、イエスと神との完全な結びつきは、神の側に同じく完全な神とイエスとの交わりが、対応して存在するのであります。神は、イエスに何事も隠さず、イエスに対して自ら秘密をつくることをなさいません。それどころか、御自分のなさることをことごとくイエスに見せ、またそのすべてを行なわせるのであります。イエスには、御自身から何かをすることが不可能であるゆえに、神においてすべてが可能なのであります。イエスの全き〔神への〕依存こそ、その全き自由の根拠なのであります。イエスの自分自身における無力さこそ、彼をして神にあって一切の事を可能にするのです。その完全な自己放棄こそが、彼をゆるぎなく、無限に豊かで永遠に生きる人格とします。なぜなら、まさにイエスが神にのみ仕えるゆえにこそ、神はイエスをとおしてのみ〔万物を〕支配なさるからです

 

私たちは、アダムの末裔です。神との一体性を自ら捨て、私たちは自分を神のように思う自己中心性に支配されているのです。

 

21-23節:「父が死者を甦らせ、生きさせるように、子もまた自らが欲する者たちを生きさせるのである。何故なら、父は誰をも裁くことなく、一切の裁き(の権限)を子に与えた。すべての人が父を敬うのと同様に、子をもまた敬うようになるためである。子を敬わない者は、子を遣わした父を敬うことにならない」(田川訳)。

 

ユダヤ人たちが、イエスが病人をいやすのをやめさせようとしている時、イエスは彼等に、「永遠のいのちを与え、悪を終わらせる裁きを、悪に対して行使することが、御自身の使命である」と宣べられます。このように偉大な神の御業を、イエスは行なわれます。ただ神のみが、死人を生かします。しかし、神がそのことを行なわれるゆえに、またその通りに、イエスもまた欲する者たちを生かすのであります。神との結合の中にあるからこそ、イエスは、神の権威によって人の運命を決定することができるのです。イエスはその欲する者たちを、いのちに招き、エゴイズムからではなく、神の御心に従って生きる者とします。しかも、裁きの執行が、それから分離されはしません。神は悪を拒否するゆえに、裁きが行なわれなければなりません。それゆえ、悪に対し〔正〕義の勝利を働かせることは、イエスの務めであります。その勝利は、すべて罪なるもの(私たちのエゴイズムから生まれるもの)を無力にし、打ち倒します。イエスは、その生かす者を、裁きからまぬかれさせました。しかし、イエスのいのちを拒否する者は、判決を受け、裁かれます。神は、その判決を全くイエスにゆだねられました。イエスの裁きから離れた、神の裁きへの招きは存在しません。イエスの判決と離れて別な、神の判決は存在しません。イエスの務めは、悪がそれにふさわしい罰にあうようにすることであります。神は、裁き主としての職務をイエスにゆだね、イエスはまたそれを遂行するでしょう。それによって、イエスは裁くためではなく、救うためにこられたという約束は、決して制限されはしません。むしろ、裁きの執行が、イエスの御手以外の者の手によってはなされないということによって、その恵みの価値が、完全に通用するのです。イエスの与える恵みは、いつまでもつづく、それと同じようにイエスが恵みを拒否する時、それもいつまでも拒否されつづけ、人間は裁きを受けます。彼がそのいのちを与える場合にも、裁き主としての力を用いる場合にも、いずれにおいても、イエスに対する神の愛が啓示されるのです。このような愛は、イエスに神のすべての御業と完全な共同性を与えます。神は、御自分と同じようにイエスが崇められるのを見ることを願います。神はイエスに、御自分の永遠のほまれという王冠をかぶせます。神は、御自身にふさわしい、その同じ信仰をイエスについても求め、御自身への愛をもたらす、その同じ崇拝をイエスについても要求されます。

 

エスは未来において初めて、神と完全に一致して偉大なる神の御業を行なわれるのではありません。今すでに救い主としての御業を行ない、永遠のいのちを授けておられるのです。

 

私たちは、そのイエスが今どこで誰と共におられかを見極め、イエスと共に自分と他者の救済に与かる者でありたいと、切に願います。主がわたしたちをイエスと共に他者に仕える者としてくださいますように!

 

(イエスの神の一体性については、ほぼシュラッターによる)

 

祈ります。

 

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 神さま、あなたはイエスを通して私たちに命を与えてくださり、苦しみと死から解放してくださると共に、私たちに平和と和解をもたらしてくださいました。心から感謝いたします。み心ならば、どうぞこのイエスの福音によって私たちが生きることができますように。聖霊の豊かな導きを与えて下さい。
  • けれども、私たちはイエスをこの世の片隅に追いやって、自らの思いのままに生きることによって、他者を傷つけ、苦しみを与え、時には抹殺している者であります。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻をはじめ、軍事力によって問題解決を図る人間の驕りによって苦しみ、命を失っている人が、今も世界では後を絶ちません。どうかそのような人間の驕りを打ち砕いてください。そのために苦しんでいる人々を助け、支えてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。特に今病の中にある方々を癒し、支えてください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    509(光の子となるため)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-509.htm

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                        

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。