なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(214)復刻版

 今日は朝から今まで、このブログにとりかかることができずに、今になってしまいました。先ほ

どまで聴覚障がい者の方がいらっしゃって、いろいろと質問を受けていました。筆談を交えてお話

をしました。

 さて今日も、「黙想と祈りの夕べ通信(214)」復刻版を掲載します。      


       黙想と祈りの夕べ通信(214[-5]2003.11.2発行)復刻版

 今日は午後に戸塚の明治学院のチャペルで教区音楽祭がありました。22教会の聖歌隊や讃美歌

を歌うグループが参加して行なわれました。私は少し遅れて参加しました。最初の教会(I教会)

は既に始まっていましたので、途中から外で聴き、2番目の教会からホール2階の最後列で聴きま

した。二つほど感銘を受けたことがありましたので、その報告をしたいと思います。一つは、少人

数の聖歌隊やグループの賛美の中には、神への賛美を心から歌っているその姿が伝わってくる教会

がいくつかありました。技術的にはどうかよく分かりませんが、神をほめたたえる賛美が聴衆に伝

わってくるのです。少人数なので一人一人が一生懸命にうたっていたからでしょうか。この伝わっ

て行くものは何だろうかと考えさせられました。もう一つ感動したことは、H教会の聖歌隊だった

でしょうか。明らかに体に障がいを負った方が聖歌隊の一員にいらっしゃいました。他の方のよう

に立っていることができないのでしょう。椅子が用意されて、手も不自由のようで、楽譜はこれも

用意された譜面台で見ていました。合唱のときどきにその方の声ではないかと思える全体の歌声と

は違和の声が聞こえました。でも、その方を包んで歌われる聖歌隊の賛美の歌は、聴く者の心を揺

さぶったのではないでしょうか。私は少なくとも感動しました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。先日放映された「情熱大陸」とい

うテレビ番組を観た。ジャズの本場であるアマリカに単身で行って、活躍している日本人の24歳の

女性のジャズピアニストを追うという番組である。彼女は自分で曲を作り演奏する。その演奏たる

やすごいとしか言いようがない。アメリカで日本人がジャズをするためには、普通ではダメで、と

にかく目立たないと認められない。そのために彼女は自分の髪を逆立て、彼女の存在をアッピール

する。ピアノの弾き方も尋常ではない。飛び跳ねながら弾いている。すごい演奏である。終わると

自分のところに帰ってきて、食べるものと言ったら、納豆ご飯と味噌汁やカップラーメンである。

ニューヨークで食べた吉野家の牛丼が贅沢だという。演奏が終わって、バスに乗り遅れて、違った

路線を探して、やっと泊るところにたどり着くこともある。今はドイツでの演奏の機会が与えられ

たので、そのためにドイツ語を習っているという。少しでも話ができるようにと。彼女のことを観

ていると、何故そんな大変な思いをするのだろうかと思う。彼女は、自分は自分から選んでやって

いるので、ちっとも大変ではない。自分から選んでこの大変を作っているからだ。けれども、イラ

クの子どもたちの方が大変だと言うのである。24歳の青年が自分に与えられているエネルギーを噴

出して活動している姿に感動させられた。同時にその青年が、自分のことだけではなく、イラク

子どもたちの抱えている他者の痛みや苦しみへの視野もきちっと持っているのは、素晴らしいと思

った。自分は生来怠惰な者なので、彼女のようにはなれないが、自分なりに自己実現に励んで行き

たいと思わされた。若い人の活躍から教えられた、忘れられないテレビ番組であった。



      「戦いと苦難からのあがない」(『ルターの日々のみことば』より)


    主はその民にあがないを施された。 詩編111:9


 わたしを信じ、わたしのために苦しみ、わたしを信じて死んだ人はおそれるにおよばない。信じ

ない人はおそれるかもしれない。しかし、あなたはおそれる必要はない。なぜなら、そのようなこ

とはかならずおこるからである。世がかながず砕けて滅びるものであれば、まずいくらかの破壊と

爆発がくるのは当然である。そうでなければこれほど大きな構造物がこわれることはありえない。

あらゆるものはふるわれ、ゆり動かされなければならない。それはちょうど病人のようなものであ

る。死が彼を打つ時、彼は身をよじり、もだえ、目を回し、口をゆがめる。顔はあおくなり、顔色

は変わる。世もそのとおりになるのである。

 それゆえ、あなたがたに言っておくが、おそれず、喜び待ち望む人のように、かしらをあげるが

よい。あなたのあがないは近いからである。

 このように主はその聖徒にむかっておっしゃるのです。彼らもまた太陽や月が彼らの目を射て、

空が火に満ちる時、おそれるからです。聖徒たちは強くありません。ペテロやパウロも生きていた

とすれば、おどろくにちがいありません。しかし、わたしたちの主はおっしゃいます。勇気を出し

なさい、それはたしかにおそろしい情景である。しかしそれはあなたがたに対するものではなく、

悪魔と不信仰者に対するものである。あなたにとっては救いとあがないの喜びがやってくる。その

ためにあなたは長い間、うめきながら祈ってきた。わたしの国がきて、あなたがあらゆる罪からき

よめられ、あなたがあらゆる悪からあがなわれるように祈ってきた。このように、あなたが心から

長い間、祈ってきたことが、その時あなたに与えられるのである。

                               待降節第二主日説教