なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(154)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(154)」復刻版を掲載します。


      黙想と祈りの夕べ通信154([-50]2002/9/15発行)復刻版


 先日出席した「障がい者と教会の集い」(25日―26日に開催)の発題者の一人であるTさんのこと

は前回の通信に書きました。その集いでは、他にも心苦しむ3人の当事者からの発題がありました。その

一人の方は30歳くらいの女性の方で、電動車椅子で移動していましたが、椎間板ヘルニアによって長く

座っていることが難しく、会場にベットが用意されていて、時々ベットに横になっていました。この方

は、発題の中で自分には多重人格があると話されました。一人の自分は牛乳が大好きで、もう一人の自分

は牛乳を飲むと吐き出す、そういう二人の自分がいて苦しんでいると言われました。自分の成育歴につい

ても話してくれました。小さい時にお父さんが自営業をしていて、事業が順調な時に両親から可愛がられ

て育った。ある時同居していた認知症のおばあさんから突然首を絞められたことがあって、その時は何が

何だか分からなかった。父の事業が失敗してから、父が自分を虐待した。淡々と話す彼女の言葉が、聞く

者に重く響きました。今は障がい者年金をもらって、アパートで独り暮らしをしているとのことです。通

っている教会は少人数で、何でも言えて楽しく、支えられていると、おっしゃっていました。

後の二人の発題は、本人ではなく母親からのものでした。一人は直接言葉で、一人は手紙でした。前者の

方の話からは、交通事故で身体と脳挫傷による障がいを抱えた息子さんと一緒に、何とか生き抜こうとし

ている切実な思いが伝わってきました。後者の方の手紙には、自分が数年前癌を患い、自分自身の健康が

不安な上、病院に入っている息子のことが心配であるとありました。息子は現在入院している病院を、も

う退院していいと医者から言われているのだが、同じ入院している方々のことを気遣って、退院しないで

いると。私は、一人一人の現況をお聞きしながら、お一人お一人の抱えている困難さが、それぞれみんな

違っていて、それぞれ大変重いということを改めて知らされました。この方々を含めて、私たちのテーマ

である「バラバラのいっしょ」ということを考えていかなければならないと思いました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方から発言がありました。今年の夏は豊かな経験をすることができ

た。その中で先日行われた聖歌隊の合宿で、ボイストレーナーのMさんから教えられたことを話したい。

通常ボイストレーナーは、柔軟体操や発声練習を指導してくださる。しかし、今回のMさんは、漫談でみ

んなを笑わせながら、自然と声が出るようにしていた。今までのボイストレーナーの場合、教えられたこ

とをやろうとしても、忘れてしまうことが多い。Mさんは、漫談風に話しながら、聖歌隊のメンバーとし

ての基本的な姿勢を分かり易く教えてくれた。聖歌隊は会衆とは違う。大きな声を出して歌を歌いたいな

ら会衆で十分、今から3秒以内にお帰り下さいと言われた。ハットさせられた。彼は毎週私たちを指導し

てくださるなら、発声練習もしただろうが、一年一回ということで、聖歌隊員の姿勢、毎日の地道な努

力、お互いに高い目標をめざす心構えを教えてくれたように思う。その基本的な姿勢が自然にボイストレ

ーニングになること等。豊かなものをいただいて感謝である。



      「思い煩いと神への信頼」(『ルターの日々のみことば』より)


 「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あ  
  なたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではな

  いか」           
                               マタイ6:26

 このようにして神はわたしたちの前に、他の被造物の手本を示されました。それによってわたしたち

が、神に信頼して心配しないことを、彼らから学ぶためです。小鳥はわたしたちの目の前を飛びかい、わ

たしたちに恥ずかしい思いをさせます。わたしたちは帽子をぬぎ、彼らに言わなければなりません。「親

愛なる博士よ。あなたにできることは、わたしにはできないことを、わたしは告白しなければならない。

あなたは夜通しなんの心配もなく小さな巣の中で眠っている。朝がくると、たのしく愉快に起きてくる。

あなたは小さな花にとまり、神への感謝と讃美をさえずり歌う。それから食物を捜し求めて見つける。わ

たしはなんと恥ずかしいことだ。わたしはなんと愚かものだろう。そうするだけの十分の理性を持ちなが

ら、同じことができないのだ」

 小さな小鳥はなんの思い煩いもなく生き、生ける聖徒のように振舞うことができます。畑もなく、納屋

もなく、金庫も倉もないのに、神を讃美し、歌い、幸福で愉快です。それは自分を世話してくださるかた

があることを知っているからです。その名は、「天にましますわたしたちの父なる神」です。小さな小鳥

がそうであるのに、わたしたちがどうして同じようにできないのでしょうか。しかもわたしたちは、働

き、土を耕し、果実を集め、必要な時までそれを貯え、しまっておくことができる利点をもっているので

す。それにもかかわらず、わたしたちは恥ずべき思いわずらいの生活をぬけ出すことができないでいるの

です。
                            三位一体後第十五主日の説教