なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(330)復刻版

 昨日は新年はじめての主日礼拝でした。礼拝が終わってから、クリスマスの装飾の後片付けを皆でし

て、その後お茶を飲んで散会しました。私は連れ合いと4時ごろまで教会の残り、ちょっとした仕事をし

てから、鶴巻に帰りました。いただいた年賀状の中には、裁判のことなどで私が心労を重ねているのでは

と心配してくれているのでしょう。「温泉で元気になってください」という風に書いてくださった方が数

名いらっしゃいます。その鶴巻の秦野市が運営している日帰り温泉「弘法の里湯」には、新年になって、

すでに2度、元旦と昨夜と入っています。今年も弘法の里湯につかりながら、体の免疫をアップさせて、

遅々とした歩みでしょうが、歩み通せればと願っています。

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信」(330)復刻版を掲載します。2006年11月のものです。下記

には岩国の米軍基地滑走路が、愛宕山を切りくずっして、その土砂の埋め立てによってつくられたことが

記されています。辺野古の埋め立てが仲井眞知事によって昨年末に承認されました。辺野古は沖縄の山を

切り崩した土砂の埋め立てではなく、本土から土砂をもってくることになっています。とんでもないこと

が起きようとしていますが、何とかその計画を阻止したいと願っています。



        黙想と祈りの夕べ通信(330[-17]2006・1.22発行)復刻版


 月曜日から火曜日にかけて教区の基地・自衛隊小委員会主催の岩国基地見学ツアーに参加しました。西

中国教区の方々の案内と岩国市議の方の説明を受けて、岩国基地の現状を知らされました。既に岩国市に

ある愛宕山を削り取って瀬戸内海の海側に米軍基地滑走路のための埋め立てが8割方出来上がっていまし

た。その内の四分の一はすでに米軍に引き渡し済みだそうです。岩国市と広島県が国に売る埋め立て用の

土が、契約時の一立米(?)2000円が実際には岩盤に突き当たったために掘り出すのに10000円かかって

いるとのこと。山を崩したあと地に住宅を800個建てる計画が、予定が狂い、実際には将来200戸しか建た

ず、二重三重の損失を岩国市と広島県が負担せざるを得ない状況とのことでした。岩国市の市民はそれで

も反対する人が少なく、反対運動も厳しいとのことでした。岩国での基地建設がモデルとなって辺野古

も行われるのではないかと、市議の人は言っていました。一方私は今日教会の年配の方が入院している病

院に見舞いに行きました。その方はすでに今入院している病院から療護型病院への転院を医者から言われ

ているそうですが、これからどうなっていくのか不安を抱えています。この日本は一市民であるお年寄り

の方が安心して生活できる社会ではありません。この一市民の立場から物事を考えていく視点に対し岩国

の米軍基地建設を推進する立場の視点は全く相反するのではないでしょうか。ひとりの立場にしっかり立

って考え行動できる自立的な市民が一人でも増えることを願い、私自身もどこに視座を据えて生きていく

のか、改めてきっちり考えていかなければと思っています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方が発言し、続けてもう一人の方から以下のような発言がありまし

た。先週の日曜日を挟んで夫婦で4日間京都と金沢に行ってきた。京都では以前出席していた教会の礼拝

に友人に誘われて出た。礼拝後友人と復活について、マリアの処女降誕について、信仰談義をし、80歳

過ぎのお年寄りを亀岡のホームに見舞った。金沢は雪だった。昔高山にいたことがあるので、30年ぶりに

雪の地方を経験した。今日の黙想と祈りの夕べの聖書朗読の詩編92編に、「いかに楽しいことでしょ

う・・・あなたのまことを述べ伝えることは」とあるが、伝道者やその妻はうらやましいと思った。

 続いて一人の方からの発言がありました。私はキリスト者全員が宣べ伝える人だと思う。私はこの頃神

に導かれて生かされていることを強く実感している。以前の自分は例えば園芸や手芸のように自分を喜ば

せることに時間を使っていた。ところが性差別に目を向けていくようになってから、大変な思いをして生

きている女性に出会って、今までの自分が如何に鈍感だったかに気づかされ、そういう女性たちと一緒に

生きられるようになりたいと思った。それからフェミニスト神学を学ぶことによって自分が変えられる経

験をしてきた。辺野古に関わるようになってからもいろいろな人に出会い、自分が変えられている経験を

している。何かに取り組むことによって、どこまで自分が変わるのか、最近はその面白ささえ感じてい

る。教区の婦人委員会に出た。そこで「婦人」という言葉について考えていこうということになった。教

会のエージグループでも婦人会をなくしてもいいのではという意見もある。昨日性差別委員会の後、街を

歩いていて映画を観た。「スタンダップ」という映画で、炭鉱に働いていた人が差別と闘って裁判に持ち

込むという話だ。主人公は一人の女性で、共同で訴訟を起こしてくれないかという彼女の訴えに、彼女と

共に立つ人が次々に出てくる。すすり泣く人が多かった。映画が終わって館内が明るくなり、見回すと泣

いている人の多くは女性だった。主人公の女性の苦しみと喜びへの共感が涙となったのではないか。その

映画を観終わって、言葉として「婦人」を変えても、隣人と共に生きることがなければ、余り意味がない

と思った。婦人を変えて「女性」としても、マイノリティーの人が排除される。他者と共鳴して共に生き

ることが大切ではないか。辺野古に出会って、今日も国会前の座り込みに参加してきた。座り込みだが、

寒かったのでずっと立っていた。いろいろなことに取り組んで、この一年を歩み続けていきたい。

続いて別の方から発言がありました。今晩の聖書箇所の詩篇92編には「いかに楽しいことでしょう。主に

感謝をささげることは。(中略)十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ、琴の調べに合わせて。」とある。昨

日から悩んでいたことに確信を得る思いがした。母校の礼拝堂には、ある講師の計らいで一台のポジティ

フオルガンがある。この楽器でのレッスンと礼拝は、賛美とは何か、礼拝で賛美をリードするとは何か、

人間の息と楽器の息そして命とのつながり等たくさんのことを教えられた霊的な授業であった。しかし礼

拝堂の新築に伴い、多目的に使えて移動もしやすい便利な電子オルガンに置き換えられる様子である。何

を重視するかによって価値観が異なるのであるが、息と命の豊かさを感じさせるこの楽器があることの意

味は大きいと感じ、何かしなくてはと思いを強めた。