なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(331)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(331)復刻版を掲載します。2006年1月のものです。

 今日は朝から今まで本を読んでいました。これから神奈川教区の常置委員会に出かけます。

        
       黙想と祈りの夕べ通信(331[-18]2006・1.29発行)復刻版


 今日寿の20周年誌編集委員会に行って、Sさんという鎌倉恩寵教会の方が取り組んでいますハンセン病

差別の一環として、「ハンセン病療養所の『胎児標本』取り扱いについての要望書」に署名しました。厚

労働省の2005年11月18日付けの文書「胎児標本の取り扱いについて」で、国立ハンセン病療養所に、

「胎児標本」を今年度中に「焼却,埋葬(合祀)、供養、慰霊を行うこととする」方針(案)を提起して

います。そして、「胎児標本の存否については、各施設から一律に知らせることはせず、焼却前に、入所

者等の求めに応じて、自らの胎児の標本の存否を確認する機会を一定期間(1か月程度)設けることとす

る」と述べられています。それに対して「ハンセン病胎児標本問題と取り組む市民の会」が結成され、こ

のように要望書に述べられています。「私たちは、ハンセン病療養所で生活している方々との交わりの中

で、強制堕胎を施され、胎児が『胎児標本』とされた当事者の方々の経験を傾聴する機会を得て、『胎児

標本』に露呈している人権の侵害、毀損に身も凍る思いを抱き、長い年月の間、ハンセン病問題に無知、

無関心であった自らの責任を自覚しました」とした上で、以下のような要望がなされています。「(1)

今年度中という短い期限を限って、「胎児標本」を焼却し、埋葬、供養、慰霊を行う方針の撤回を求めま

す。(2)標本の詳しい調査、当事者への聞き取りなどによる強制堕胎の実態の把握を通じて隔離政策の

歴史の検証と反省を深めること、そして今後のために医療倫理、生命倫理などの見地からの総括を、焼却

に先んじて行うことを求めます。それが本当の意味の供養、慰霊、追悼になると考えます」。その通りで

はないでしょうか。ハンセン病に対する無知だったとはいえ、本当にひどいことをしたものです。過ちは

きちっと検証されませんと、また同じ過ちを繰り返すことになります。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。月曜日に国会前の辺野古基地建設反対の

座り込みに行った。その時も今話されたハンセン病関係者やアスベストの被害者の抗議、訴えが同じ国会

前で行われていた。アスベストに関してはその毒性が70年代から分かっていたのに、適切な処置を国が怠

り、その結果国が被害者を作ったという風にも言える。知らなくて犯した罪と知っていて犯した罪は違

う。ハンセン病の問題には人体実験を思わせるものもあるようだ。何のためなのか。国が誰の利益を求め

ているのか。どっちを向いているのか。小さな者、弱い者を置き去りにしていく、二極的に勝ち組み、負

け組みがはっきりしていく傾向にある。「人間が壊れる」という表現が使われている。今日の聖書朗読の

詩編99編では天を仰ぐことが強調されている。イエスの生き様は小さな者、弱い者に視点を据えて、低み

から天を仰ぎ、壊れそうな人を壊れないようにしていくように思う。小さな声でも、上を向いてあげて行

くことが大切ではないか。国会前でアスベストの被害者が遺影を抱えて涙を流しているのを見て、怒りを

感じた。出来る限り、いろいろな痛みを持っている人に目を注いで生きていきたい。

 私は1967年の夏に岡山市の蕃山町教会に夏期伝道に行きました。その時蕃山町の青年たちと長島愛生園

を訪問したことがあります。長島愛生園には曙教会があり、そこを訪ねて交流会をしました。しかし、今

から考えますと、ハンセン病の方々が受けている差別について、本当のところ余り深くは考えていなかっ

たように思います。