なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(216)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(216)」復刻版を掲載します。

      黙想と祈りの夕べ通信(216[-7]2003.11.16発行)復刻版

 先週の金曜日に教区の社会福祉小委員会の主催による「かにた村」訪問に、私も参加しました。

以前から一度行って見たいと思っていたところでしたので、念願がかなって、自分としては喜んで

います。けれども、「かにた村」の場所に身を置いて見て、改めて厳しく重いものを背負う感じで

した。「かにた村」は婦人保護施設で、いわゆる「売春」で傷ついた女性のためのコロニーです。

私の「かにた村」への関心は、既に召された深津文雄さんへの関心と結びつきます。深津文雄さん

は、日本のキリスト教界の中では、聖書と実践が結合した稀有な人の一人ではないかと思っていま

す。本格的な聖書学を日本の中で広める働きをはじめ聖書学研究所の創設者の一人が深津文雄さん

です。晩年「かにた村」のチャペルの日曜礼拝でされた深津文雄さんの説教が『底点志向者ジュシ

ュアカ(イエス)』という説教集にまとめられています。実践に裏付けられた聖書の読みの深さが

感じられる説教で、私は断片的ですが時々読むようにしています。私が「かにた村」から帰って、

「厳しかった」と言いましたら、娘に当たり前でしょと言われました。「売春」で傷ついた女性の

場合は、百パーセント(?)人間社会によって作り出された女性たちで、社会の偏見から逃れて、

「かにた村」というコロニーで明るく生活している様子に触れて、ホットすると共に、どうしても

ホットだけではすまされない重いものを感じたわけです。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今先生が話された「かにた村」に

自分も一緒できて嬉しかった。また、北村先生が「かにた村」に行ってどんなことを感じられたの

か、伺えてよかった。私が「かにた村」に最初に伺ったのは、檜の慰霊柱が立ったときだった。そ

の檜の柱と戦死した兄の白木と重なり、大変印象深かったことを思い出す。今回「かにた村」のA

シスターの高齢になった姿に触れ、その内に秘められた静かさに感動した。「かにた村」に行って

から、信徒の友9月号の南房総伝道所の記事を読み返した。静かさの中に凛とした強さの感じられ

るAシスターのことが忘れられない。

 続いてもう一人の方からの発言がありました。今日は礼拝後の婦人会で、ハンセン病のお話を伺

った。信徒の友の朗読でも同じ問題を扱った文章を読んでいたので、関心があった。自分の女学校

時代、学校で「救らい運動」があり、献金した。プロミンという良い薬がでてきて、その薬を患者

さんに行き渡らせるためにという勧めがあり、私も献金した。婦人会でその「救らい」献金がどの

ように用いられたのか、講師のSさんから聞いた。主にK社の運動資金に使われたといおうことだ

った。教会や学校でやることは間違いないという思い込みが私たちの中にはあるように思える。そ

ういう先入観によって、キリスト教ハンセン病の人たちを隔離することに手を貸したということ

が起こったのではないかと思う。事実に即して物事を判断する事実認識を追究することなく、教会

だから、学校だから間違いはないという思い込みに気をつけなければならないと思う。信仰による

癒しということが語られるが、信仰によって本当に癒されたのか、信仰が病める者の叫びをとどめ

る機能をしていないか、よく見極めなければならない。そして、教会が物事の非を非として正しく

指摘できるようになりたいと思う。



       「忍耐と苦難」(『ルターによる日々のみことば』より)


 ・・・神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。更にまた祈るのは、あなたがたが、

  神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍ぶ  
  ことである。           コロサイ1:10,11


 このような力と栄光ある権威をもって、わたしたちは信仰のうちに強められ、神のことばにより

そのために戦い、それにすがりつかなければなりません。そしてわたしたちが出発するだけでな

く、前進し、勝利を得、主の力によってますます強く成長するように祈らなければなりません。

 しかしそのように強められ、打ち勝つことは大きな忍耐なしにはできないことです。また忍耐だ

けでなく、忍びとおす「しんぼう強さ」が必要です。パウロはこのしんぼう強さを忍耐よりもさら

に大きく強いものとして区別しております。なぜなら悪魔が苦しみと悲しみによって心を攻め囲ん

でも征服できないときに、その方法を用いるからです。そのとき、忍耐するにはとても大きすぎ、

ながすぎるようになり、もう決して終わりがこないかのように思わせるのです。そして最後には弱

って疲れきり、敵を征服する勇気と希望を失わせるまでに攻撃します。

 こうした攻撃に対しては忍耐だけでなく、しんぼう強さが必要です。それによって苦しみの中に

もしっかりと動かず持久しつつ、(悪魔にむかって)言います。あなたがたとえ世の終わりまで悩

ましつづけても、わたしにとってそれが大きすぎ、ながすぎるようにはできない。これが戦いと苦

しみの中にいつも耐えつづけさせるまことの勇者としてのキリスト者の力です。そのため、神の力

と勢いの大部分を祈りを通じて与えられ、それにより激しい戦いにも負けることなく最後まで戦い

ぬきます。

 このように忍耐としんぼう強さをあなたは喜びつつ実践するのです。

                          三位一体後第二十四主日の説教