なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(39)

使徒言行録による説教(39)使徒言行録10章34-43節
              
・新共同訳聖書の表題を見ますと、今日の使徒言行録の個所は「ペトロ、コルネリウスの家で福音を告げる」となっています。つまり、今日の個所には、非ユダヤ人(異邦人)であるローマ人のコルネリウスの家で、ユダヤ人でイエス使徒であるペトロが語ったと言われる福音宣教の内容が要約されているわけです。

・前回は、ユダヤ人であるペトロと非ユダヤ(異邦人)であるコルネリウスが出会い、ペトロからコルネリウスがイエスの福音を聞くということ、そのこと自身が、人間主導ではなく、神ご自身の主導によって実現した出来事であることを学びました。ユダヤ人と非ユダヤ人(異邦人)の間にあった、その交流を妨げる、非ユダヤ人(異邦人)を「汚れた者」としているユダヤ教の掟の壁が、「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」という天からの声を三度聞いたペトロが、コルネリウスから遣わされた使者の招きに応えてコルネリウウスの家に出向くことによって越えられ、ペトロとコルネリウスの出会いが実現します。

・そこで、何よりもまずペトロが語った言葉は、「神は人を分け隔てなさらない」ということでした。「ペトロは口を開いてこう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられているのです』」(34,35節)と。

・「神は人を分け隔てなさらない」は、口語訳では「神は人をかたよりみないかたで」となっています。田川健三さんは「神は顔により片寄りみるような方ではない」と訳しています。原文では「顔を取る者」という言葉で、「元にあるのは2単語の表現で、『(誰それの)顔を』『取る』という言い方である」と言われています。「つまり『顔によって選別する。特定の人を贔屓する』」という意味です(田川)。

ユダヤ人であろうが、非ユダヤ人(異邦人)であろうが、その顔で神は依怙贔屓する方ではない。「どんな国(民族)の人でも、神を畏れ正しいことを行う人(原文:義を行う人)は、神に受け入れられるのです」というのです。新共同訳の「正しいことを行う人」で私たちが思い浮かべるのは、道徳的に正しい人とか、法律や規則を破らない人というイメージではないかと思いますが、「義を行い人」は、そういう意味も含んでいるかも知れませんが、義は関係概念ですから、むしろ「平和や和解を造り出す人」と言い換えられるように思います。ローマの信徒への手紙14章17節には、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」と言われています。このところでは、「義と平和と喜び」が並列して出て来ます。そういう関連で義の意味を理解する必要があるのではないでしょうか。

・ところで、パウロのガラテヤの信徒への手紙を見ますと、「神は人を分け隔てなさらない」という信仰によって、ユダヤ人と非ユダヤ人(異邦人)の壁を超えて、「私もあなたも同じ人間です」と言って、非ユダヤ人(異邦人)のコルネリウスと共に福音にあずかったはずのペトロが、後戻りしてしまったことに対して、パウロが叱責しているところが出て来ます。ガラテヤの信徒への手紙2章11節以下です。そこを読んでみます。

・「さて、ケファ(ペトロのこと)がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、(エルサレム教会のイエスの弟)ヤコブのもとからある人々が来るまでは、(非ユダヤ人である)異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。『あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。』」(ガラ2:11-14)。

・この記事からしますと、ペトロは「神は人を分け隔てなさらない」方ですと、コルネリウスらに宣べ伝えておきながら、その自分で語った言葉に反する行動を、アンティオキアの教会で行っていることになります。ルカはこのことを知らなかったのでしょうか。それとも、自分の語っていることと行動が離反するのは、ペテロの人間的な弱さとして広く知られていて、そのことをルカは特に問題にしないで、許容していたのでしょうか。その辺はよく分かりませんが、少なくとも福音書の中でのペテロの姿は、言行不一致という面を強く持っていたようです。みなさんもよくご存じのように、イエスの十字架が迫って来た時に、ペトロは「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)と言っておきながら、「あなたは今日鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(同22:34)というイエスの予告通り、イエスを裏切ってしまいます。けれども、イエスの十字架と復活の出来事を通して、ペトロはイエスの復活の顕現に出会い、イエスの十字架を前にして裏切ってしまった自分自身を悔い、イエスの復活の証人として新たにイエスの弟子として歩んでいったと思われます。そのペテロがイエスの生前に犯した過ちと同じことをしてしまったということなのでしょうか。「神は人を分け隔てなさらない」とコルネリウスの前で語りながら、アンティオキア教会では、その言葉を否定するような行動をしてしまったということなのでしょうか。

・ルカは、おそらくそのようなことを問題にすることなく、彼のエルサレムから地の果てまでという最初期の教会の福音宣教の広がりを、図式的に描いているのではないかと思われます。ですから、ペトロがコルネリウスに宣べ伝えた福音宣教の内容も、最初期の教会の中で宣べ伝えられていた福音宣教(ケリュグマ)内容をペテロの口から語らしめていると言ってよいでしょう。

・さて、そのペトロが宣べ伝えた福音宣教(ケリュグマ)の全体を見てみたいと思います。使徒言行録の著者ルカは、この「神は人を分け隔てなさらない」に続けて、イエスの生涯の活動について触れています。「神がイエス・キリストによって ―この方こそ、すべての人の主です― 平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです」(36-38節)。

バークレーは、この部分についてこのように述べています。「イエスは、神によって送られ、神によって聖霊と力を備えられた方である。だから、イエスは神が下さった贈物である。イエスはいやしのわざをなさった。イエスは、またとない人間の慰め主であられた。この世界から、苦しみや悲しみのすべてを消し去りたいと願っておられた」と。

・それだけではなく、ここには、「すべての人の主です」と語られ、「神がイエス・キリストによって平和を告げ知らせ」と言われています。この「平和」はいやしも含みますが、同時に神と人、人と人とを繋ぐ和解を意味します。エフェソ2章14節以下に「キリストの平和」についてこう記されています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・・双方を御自分において一人の新しい人に造り上げ平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と記されています。

・<ここには、神と人、人と人との間にある敵意が、キリストの十字架によって滅ぼされ、神と人、人と人の間に本当の平和=和解がもたらされたということが語られています。ここで「人と人」というのは、具体的に神の民ユダヤ人と、救いから遠く退けられていた(非ユダヤ人)異邦人を指しています。まさにキリストが十字架にかかって死んで下さったことにより、人と人、民族と民族を隔てている抜き難い敵意が滅ぼされ、一つのからだに結ばれ、一つの共同体(教会)とされたことが述べられているのです。勿論、この時ペトロに、ましてやエルサレムの原始教会に、それだけの信仰的認識があったとは考えられません。しかし、実際問題としては、明らかに教会は、差別を越えて民族の和解に至る道へと、その第一歩を踏み出したことだけは確かです。/キリストの十字架の福音は、平和の福音であり、和解の福音です。その福音によって生かされている群に差別や偏見があっていいわけはありません。現実の私たちの教会に、人と人の和解が実現していないとすれば、それは、私たちキリスト者が、福音がもたらす現実に服していないからです。むしろ不遜にも主のみ業を妨げているということになるでしょう>(岡崎)。

・さらに、この個所の福音宣教(ケリュグマ)の内容を見ますと、「ユダヤ人とエルサレムの住民が木にかけて殺したイエスを神が死人の中からよみがえらせ、ペトロら弟子たちに現われさせたこと」、「神がこのイエスを生者と死者の審判者として立てたが、イエスを信じる者はだれでも罪のゆるしを受けることができると預言者が証言していること」が語られています。

・これらの福音宣教の内容は、何よりも私たち<今ここで>生きる者にとって、何が真の現実なのかを問いかけているように思われます。ペトロやコルネリウスにとっては、ユダヤ人と非ユダヤ人(異邦人)という民族の壁が世界の現実としてありました。けれども、イエスの福音の現実は、民族の壁を越えて異質な人と人を結びつけて、誰も分け隔てない神の下に一つにします。二人はこのイエスの福音の現実を受け入れることによって、民族の壁を越えて繋がりました。苦しみ悲しむ者が癒され、神と人、人と人が繋がる平和の主イエスにあって平和と和解を生きることが許されている、そのようなイエスにある現実を信じて歩みを起こすことが信仰ではないでしょうか。私たちは目に見えるこの世界の、社会の現実に翻弄されることなく、目には見えないけれども確かに私たちの只中に突入しているイエスの現実、神の現実を、信仰によってしっかりと見定めて、そのイエスの現実を生きる者でありたいと願います。

・(星野富弘『いのちより大切なもの』p.6-p.7より、「被災地の津波でさらわれた街の瓦礫の間に、枝が折れた一本の木の枝先に咲いていた花を見て、津波で肉親や家を失ったであろう人達が、まるで希望の光を見つけたように佇んでいた」という記述を紹介し、津波でさらわれた街(=社会的現実)の現実と折れた木の枝の先に咲いていた花(=信仰的現実)を比喩的に語った)。