なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(254)復刻版

 昨日は、いつもは船越通信を掲載する日でしたが、私は9月2日から15日が夏期休暇ですので、昨日は船

船越通信を出していません。ですから、このブログもお休みさせていただきました。

 夏期休暇と言っても、昨日までは、出かける用件も結構あって、お休みという感じではありませんでし

た。今日から土曜日までが本格的な夏期休暇の気分です。私は、こういうお休みの時になると、自分の本

棚や書斎の配置換えをしたりするのが癖のようになっていて、今日も朝から今少し前まで、本棚の整理を

していました。鶴巻のマンションの私の書斎になっている部屋は、6畳弱の広さしかありませんので、本

棚には二重乃至三重(手前と真ん中と奥と)に本が入っています。紅葉坂教会を辞めた時に、聖書学関係

の本と文庫本、新書本、その他キリスト教関係以外で、系統だてて集めたものでない一般書は船越教会の

方に、その他のものは鶴巻に分けて運びました。どちらも、整理して本棚に本を並べていませんで、引っ

越し後にざっと並べて本棚に入れたままですので、いざこの本をという時に、なかなかその本を見つけら

れないことも、しばしばです。

 昨日の日曜日の礼拝は、鶴巻から近くの秦野西教会の礼拝に出席させていただきました。連れ合いが船

越教会の礼拝に来れない時に出席させていただいている教会です。私が神学校を出て最初に赴任した東京

の下町の教会のメンバーだった方が、渋沢のホームに入所していて、日曜礼拝には秦野西教会の礼拝に出

席していますので、昨日もその方とお会いすることができました。礼拝開始前にその方にご挨拶をする

と、開口一番「先生、裁判はどうなるの?」と言われ、私が「最高裁に訴えていますので、来年にならな

いと結論がわからない状態です」と申し上げましたら、「それまでは死ねないわね!」とおっしゃってく

れました。礼拝後は、秦野西教会の信徒の方も、裁判は教会として支援しています、と言ってくれまし

た。うれしく、また力づけられました。礼拝も、他の牧師の説教に耳を傾ける機会が与えられ、新鮮に聞

くことができました。

 この日の夜には、東京の教会で「聖餐を考える会」があり、この会でも私の裁判を支援してくださって

いますので、私も出席して、鶴巻に帰ったのは午後10時半過ぎでした。

 さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信(254)」復刻版を掲載します。
 


          黙想と祈りの夕べ通信(254[-45]2004・8.8発行)復刻版



 この8月は11日と18日の水曜日夜の黙想と祈りの夕べはお休みにします。最初18日だけお休みというこ

とにしましたが、私の夏期休暇の半分(後の半分は秋に回しました)を11日[水]から15日[日]までに

しましたので、11日もお休みにさせていただきました。

 さて平和について8月は特に考えさせられますが、先日たまたま伊勢佐木町有隣堂で本を見ていまし

たら、竹中千春『世界はなぜ仲良くできないの?~暴力の連鎖を解くために』という本が目に入り、購入

して読んでみました。この本の帯には「こどもたちのこんな質問に、あなたは答えられますか?」と書か

れています。なかなか難しい問題ですが、大切なことは私たち一人一人がこの質問を自分で解いていこう

とすることではないでしょうか。そのためには、現在の世界の現実を直視し、何故そのような現実が起き

るのかその原因を究明していくこと、そしてどうしたら平和な社会ができるのかその方法論を探し、自分

が社会の主人公であることをよくわきまえて、自分の出来ることをしていくということではないでしょう

か。上記の本を読んでいたときに、並行して高橋哲哉の『反哲学入門』も読んでいて、ほぼ同時に二冊の

本を読了しました。高橋の本の中に「現実を変えるのにウルトラCはない」という表題のところがあり、

その中で歴史をどう考えるかという廣松渉からの引用に基づいて以下のような一節がありました。少し長

くなりますが、そして廣松の引用部分は難解かもしれませんが、紹介します。

 〈廣松は「歴史の法則性とは、謂うなれば、諸個人の営為の物象化された“合成力”の軌跡にも譬え得

べく、一定の所与的条件のもとでは、蓋然性に帰結して行く“航跡”的な形象である」と指摘していま

す。つまり、世の中を動かしているのは私たち一人一人の力を越えた社会的力であるかのように見えるけ

れども、実は一人一人の力の合成(ヴェクトル)のようなものであって、「諸個人の外部に自存するわけ

でも、直接的な物理作用を及ぼすわけでもない。現実に存在するのは、意識的存在たる諸個人が物象化的

錯誤にもとづきつつも、自己拘束するという事態である」と考えられるのです。・・・・「時代の流れ」

として感じられるものも、一人一人の合成力がある方向に強く働いているということであって、それに

「抵抗しがたい」ように感じるのは「自己拘束」しているからだとも言えるのです。それに対抗していく

には、別の方向へと向かう一人一人の力の合成力を生みだしていくほかに方法はありません。〉

 竹中の本も結論は上記と同じことのように思われます。この本は5章からなっています。第1章 安全

な世界と危険な世界(安全で豊かな世界と危険で貧しい世界)、第2章 暴力の構図、第3章 紛争の地

図、第4章 暴力を抑えるルール、第5章 暴力を止める方法です。詳しくは同書を読んでもらいたいと

思いますが、この本の「むすび」に「暴力の連鎖を解くのは、誰か」という表題のついたところがありま

す。

 「長い歴史の中で、たくさんの人々がさまざまな努力を積み重ねてきたのに、なぜ、(人間が暴力から

離れられなくなっている)この病気の状態がよくならないのでしょう。むしろ、最近になるほど悪化して

いるように見えるのは、なぜでしょうか。答えは簡単です。暴力から離れたくないという力のほうが、暴

力を止めようとする力よりも、はるかに強く働いているからです。これは、人間の社会全体から見れば、

自滅的な方向だと思います。・・・それならば、両者の力関係を逆転させれば、暴力を止めることができ

るのではないでしょうか。暴力から離れようとする力を増して、仲の良い世界を作っていけるのではない

でしょうか」。

 そして、竹中は「痛みの共有」が暴力を止めようとするきっかけであり、「多くの人々が、『あ、痛

い』と感じる力によって他人の痛みを共有し、安全と危険や豊かさと貧しさの格差を越え、さらに国境を

越えて、仲間意識を作ることができるかどうか。筆者としては、まだ結論を下すまでには至っていません

が、これが、現代世界の暴力の連鎖を解く鍵だと思っています」と述べています。

 この時期ですので、2冊の本の紹介をさせてもらいました。「平和を実現する人々は、幸いである。/ 

その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)