なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(480)

船越通信、№480 2020年12月20日 北村慈郎

  • 今年は、新型コロナウイリス感染拡大第三波の渦中のクリスマスになりました。まずは今年も、イエスの誕生を祝うクリスマスの喜びを共にしたいと思います。「クリスマスおめでとうございます」。
  • 13日(日9の礼拝後の報告で紹介しましたが、関田寛雄先生から私と船越教会の皆宛にきましたお手紙の文面を、ここに記しておきたいと思います。「主の平安をお祈りいたします。クリスマスおめでとうございます。コロナ禍の広がる年になりましたが、この暗い時代の中で、『世の光』としてお生まれになった主イエスのクリスマスを祝うことは特別に意義あることです。クリスマスは夜の出来事でした。そこで一句浮かびました。『朝顔は/光を待ちて/闇に咲く』(寛雄)。新しい年を、北村先生の名誉回復に向って、希望を失うことなく進んで参りましょう」。
  • 先生のお葉書は、船越教会から先生に出しましたクリスマス・カートに対する応答ではないかと思います。クリスマス・カードは、Iさんがまとめてくださり、関田先生だけでなく10数名の方々にも出しました。そのクリスマス・カードとクリスマス集会への案内のはがきには、いつもクリスマスにかかわる小文や祈りを記していますが、今年は以下のものにしました。≪ノルウェーでは、とっぷりと暮れた秋の夕暮れから、森の中を走破するトレッキングがはじまります。その時、手に持っているのは足もとを照らす小さな灯だけです。「こんなに小さな灯で大丈夫だろうか」と疑問に思うかもしれません。しかし、それで十分なのです。その灯はひと足、ひと足、足もとを照らすだけで十分なのです。その灯が自分のひと足ひと足と足を照らして行けば、長い道程も、最終的な目標に到達できます。こうして神は私たちの歩みをひと足ひと足照らしてくださるのです≫。(ハレスビー)~『クリスマス・カレンダー、アドヴェントから降誕の喜びへ』から~
  • 13日(日)の礼拝後、役員で教会裏の崖地のことで、「急傾斜崩壊危険区域指定と、防災工事についての要望書提出」のために近隣の方々の承認が必要ですので、そのお願いの文書の打ち合わせをしました。その後私は来週の準備をし、午後1時過ぎに船越教会を出て、鶴巻に向かいました。
  • この週は18日(金)に寿地区活動委員会が予定されていましたが、新型コロナウイリス感染拡大のため委員会は中止しましたので、この週も、鶴巻のマンションの近くで買い物したり、少し散歩したりして、どこにも外出せずに過ごしました。21日(月)に紅葉坂教会のメンバーの一人から電話があり、私の留守中でしたので、留守電に入っていましたので、気づいて折り返しその方に電話しました。私は紅葉坂教会時代にちょうど10年間週日の夜に「黙想と祈りの夕べ」という集いを行っていました。これは私の個人的な発案で役員会に認めてもらって行っていた集会ですが、出席者は私と連れ合いの千賀の他に数名でしたが、電話をくれた方は、10年間ほとんど休まずにこの集いに出席していました。電話の内容は、ここ数年体調を崩したりして、紅葉坂教会の礼拝に出席していず、教会から送られて来る郵送物にも目を通していなかったが、この数日体調が安定して紅葉坂教会の週報のある方のコラムを読んだら、「千賀さんが召された」ことを知って、驚いで電話したということでした。しばらくお互いの現状報告のような話をして、千賀の冊子『もう充分、感謝』を送る約束をして電話を切りました。その後すぐ手紙を書き、千賀の冊子を同封して郵送しました。この人は電話で10年間の「黙想と祈りの夕べ」によって自分は力づけられたと言ってくれました。
  • 「黙想と祈りの夕べ」は、フランスのテゼ共同体に触発されて、自分なりに考えたものですが、カトリック教会の「黙想会」をはじめ、いろいろなところで同じような祈りの会が行われているようです。切り口は違うかも知れませんが、佐藤研さんの座禅会も同じような試みの一つではないかと思われます。私の考えた「黙想と祈りの夕べ」はいい加減なものですが、神(=イエス)と個としての私との関係性を深めるためには、今でもこの種の営みの有効性を疑っていません。これは神との垂直の関係ですが、それと共に、神のもとに同じ尊厳を持つ者同士が水平的な関係として共に生きる「共生」の領域が、私たちには不可欠です。個としての一人の人間の深化と共同性の深化が相まって教会が神の契約共同体として自立するのではないかと、私は長年考えてきました。礼拝が中心になりますが、その他に個の領域では「黙想と祈りの夕べ」が、共同性の領域では「かんくきの会」が望ましいのではないかと。しかし、後者は私の頭の中だけで考えたもので、何か具体的な活動としてはまだ一度も実践していません。「かんくき」とは「共感」をベースにした「共に苦しみ」「共に喜ぶ」ことを意味しています。「共感」「共苦」「共喜」、これが関係性の深化ではないかと思うのです。北海道浦河のベテルの家やジャン・バニエが始めたラルシュ(箱舟の意)共同体が、私の知る限り、「共感」「共苦」「共喜」を実践しているように思えます。
  • 斎藤幸平『人新生の「資本論」』⑤ 「産業革命以降の人類の経済活動が地球システムへの負荷を増やしていることは一目瞭然だ。特に、再二次世界大戦後の経済活動の急成長とそれに伴う環境負荷の飛躍的増大は『大加速時代』(Great Acceleration)と呼ばれる。その加速が冷戦体制崩壊後、さらに強まっている。こんな時代が、持続可能なはずがない。やはり、「人新生」は破局へ向かっているようだ」。「資本主義のグローバル化と環境危機の関係性をまずはしっかりと理解しなくてはならない」。「グローバル・サウスとは、グローバル化によって被害を受ける領域ならびにその住民を指す。グローバル・サウスの抱える問題は、以前なら「南北問題」と呼ばれていた事態だ」。「ともかく、旧来の南北問題も含め、資本主義の歴史を振り返れば、先進国における豊かな生活の裏側では、さまざまな悲劇が繰り返されてきた。いわば、資本主義の矛盾がグローバル・サウスに凝縮されているのである」。「私たち日本人も、間違いなく加担してきた。自動車の鉄、ガソリン、洋服の綿花、牛丼の牛肉にしても、その『遠い』ところから日本へ届く。グローバル・サウスからの労働力の搾取と自然資源の収奪なしに、私たちの豊かな生活は不可能だからである」(続く)。