なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(255)復刻版

 昨日は、一日パソコンに手を触れないでいましたので、このブログはお休みしました。今日は「黙想と

祈りの夕べ通信(255)」復刻版を掲載します。9年前のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(255[-46]2004・8.15発行)復刻版


 猛暑の連続に耐えていました身体は、西丹沢の山並みに囲まれた中川温泉に二晩泊まってゆっくりしま

したら、少し元気を取り戻してきたように思われました。8月11日(水)から15日(日)までの夏期休暇

を利用して一人で丹沢に4泊するつもりで通常の休みの10日(火)から出かけました。千賀はもっぱら辺

野古の座り込みに傾注していますので、犬や猫の世話もあり、今夏は別行動ということにし、私一人でで

かけたという次第です。8月10日(火)は中川温泉の宿に泊まりましたが、ちょうどその日の夜に丹沢

湖の花火があるというので、早夕食を済ませて、宿のバスで丹沢湖に行き、花火を観賞しました。毎年行

われる横浜港の山下公園や臨海公園での花火はよく観ていますが、山々に囲まれた湖での花火は初めてで

した。打ち上げ花火の種類は横浜港のものと殆どおなじでしたが、水中花火は初めて観ました。音は山に

囲まれているからでしょう、横浜港の花火の時よりも大きく、お腹の底に響く感じでした。近所から来て

いた人なのでしょうか、今夜は花火の音で狸もびっくりするだろうとおっしゃっていました。確かに山の

動物たちや湖の魚たちには迷惑なことかも知れませんが、花火は夏の風物詩であり、美しく何となく物悲

しい情緒を誘いますので、物見高い私には楽しみの一つです。

 二日中川温泉に泊まって、たまたま国民宿舎丹沢ホームがとれましたので、三泊目、四泊目の宿にして

いました。12日(木)の朝中川温泉の宿を出て、小田急新松田駅まで戻り、秦野に行き、秦野から蓑毛行

きバスに乗り終点蓑毛で降りました。ヤビツ峠までいくバスの本数が一日2本なので、思い切って蓑毛か

ヤビツ峠に歩いて登ることにしました。約一時間でヤビツ峠に着き、しばらく休みました。それから降

りの舗装道路を約一時間半歩いて丹沢ホームに着きました。K・Kさんが中学時代までは毎年紅葉坂教会

の日曜学校の中学生とKKS(教会高校青年会)は丹沢ホームで夏期集会を行っていました。今から40年

も前になります。その頃すでにヤビツ峠までバスは行っていましたが、ヤビツ峠から丹沢ホームまでの道

は舗装されていませんでした。車も殆ど通らなかったように思いますが、今は頻繁に乗用車や単車が通

り、全く当時の面影はありませんでした。一、二、沢にかかっている小さな橋に立って見ますと、昔の風

景が思い出せるくらいでした。丹沢ホームの建物もその周辺の風景も全く違ってしまったように思えまし

た。昔の記憶が消えてしまったためかも知れませんが、特にホームの近くの川は川幅も広く、穏やかな水

の流れで、小さな子どもたちが川遊びをするのに最適でした。宿のおばさんのお話では、昔はもっと水が

多かったそうです。午後3時半ころホームに着き、一休みしてから川に下りて、その周辺を散歩し、お風

呂に入ってから夕食をいただきました。部屋にはテレビもなく、夕食後はぼんやりして休んでいました

ら、ホームの方に電話ですよと呼ばれ、J・Kさんが亡くなった知らせを受けました。千賀が私の携帯電

話に何度もかけたようですが、携帯は繋がらなかったようです。宿の電話で葬儀屋さんに連絡を取り、二

泊の予定を一泊にして翌朝9時過ぎのヤビツ峠発のバスに乗って帰ってきました。 

 丹沢ホームは戦後しばらくの時期から紅葉坂教会では日曜学校や青年会で夏期集会に使っていたようで

す。亡くなったK・Hさんから聞いたように思いますが、昔はヤビツ峠までバスが行っていなくて、秦野

からホームまで歩いて行ったそうです。当時の平賀徳造牧師は心臓に負担をかけられない体だったようで

すが、それでも夏期集会に参加してヤビツ峠まで登られたそうです。青年たちが平賀先生の体を押すよう

にして山を登っていたときに、平賀先生は、これは「強いられた恩寵」だとおっしゃったそうです。それ

以来「強いられた恩寵」という言葉が教会の中では流行語(?)のようになったということを聞いたこと

があります。

 誰もが「強いられた恩寵」と言える荷物を負いながら日常を生きているのではないでしょうか。