なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(38)

       使徒言行録による説教(38)使徒言行録10章23b-33節、

・今日の使徒言行録の個所は、前回に続いて、非ユダヤ人(異邦人)であるコルネリウスの回心物語(10:1~11:18)の一部です。ユダヤ人の使徒ペトロとローマ人の兵士コリネリウスが、はじめて出会う場面です。

・もう一度想い起しておきたいと思いますが、使徒言行録の記事では、コルネリウスもペトロも、最初から自分の意思で会うことになったのではありません。コルネリウスは、幻で天使から命じられてペトロを招くように言われたのです。「すると、天使は言った。『あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられている。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい』(10:4,5)と記されている通りです。他方ペトロも、自分が見た不思議な幻の中で、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」という言葉を三度聞いて、そのことを思い巡らしていました。すると、コルネリウスからの使いが来ました。その時は、まだペトロは幻について考え込んでいたのですが、「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」と霊に言われて、コルネリウスのところにペトロは行くようになるのです。

・ローマ人コルネリウスの招きを神から与えられた使命として受け止めたペトロは、滞在していたヤッファの信徒を何人か連れて、コルネリウスから派遣された三人の使者と共に、コルネリウスのいるカイザリアに向かいます。そのことは、「翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った」(23節b)とあるとおりです。11章の12節によりますと、ペトロと一緒に行ったヤッファの信徒たちは6名だったと記されています。そうだとしますと、ペトロとコルネリウスの使者3人を加えて、10人の一団がヤッファからコルネリウスのいるカイザリアに向かったということになります。

・また、コルネリウスの方も、彼だけではなく、「親類や親しい友人を呼び集めて待っていた」(24節)というのです。「このコルネリウスの姿勢は、彼が単に個人的な満足のために神の言葉を聞こうとしたのではなく、すべての人が共有すべき真理として、共に神の恵みを受けるために、神の言葉を聞こうとしたことを示しています」(三好明)。

・(以下物語の推移はほぼ三好明による。)

コルネリウス使徒ペトロを神から遣わされた人として心から尊敬をもって迎えたことは、25節に記されているようにペトロの「足もとにひれ伏して拝んだ」という姿勢によく現われています。しかし、この態度はペトロという人間を崇拝する誤った信仰に陥る危険をも含んでいました。そこで、ペトロは「お立ちください。わたしもただの人間です」(26節)とコルネリウスを正すことを忘れませんでした。ペトロは、自分が神に等しい者ではなく、ただ神の言葉を語るために、使命をゆだねられてこの場に来たのだと自覚していたのでした。

・ペトロが見ていたのは徹頭徹尾神の働きでした。誰の上にも同じように向けられている神の働きかけの下でこそ、「わたしも(あなたと同じ)ただの人間です」という表白が真実であり得るからです。ペテロの宣言は、神の恵みと働きかけとは平等であるという告白であると言ってよいでしょう。

・そのことは、28-29節のペトロの挨拶の言葉によく表現されています。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐに来たのです。お尋ねしますが、なぜ招いてくださったのですか」。

・実際、ユダヤ人が外国人との交際や訪問を避けていたのは、食文化に典型的に現われているように、外国人はユダヤ人の掟によるならば汚れていると判断されるような生活をしていたからでした。ところが、ペトロは神によって「どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない」ということを示されました。すなわち、神の言葉を語るために招かれたならば、相手が外国人であり汚れた者であるからと言って、断ってはならないのです。ですから、ペトロは神の言葉を聞きたいというローマ人コルネリウスの招きが、神から出たものであることを信じ、またコルネリウスにイエスの福音を伝えることが神から自分に託された使命であると信じて、コルネリウスを訪ねたのでした。

・これに対して、コルネリウスもペトロを家に招いた経緯を説明しています。30-33節のところをもう一度ご覧ください。「四日前の今ごろのことです。わたしが家で午後3時の祈りをしていますと、輝く服を着た人がわたしの前に立って、言うのです。『コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられた。ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、海岸にある革なめし職人のシモンの家に泊っている』。それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくおいでくださいました。今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」。

・ペトロを派遣した神は、それに先だってコルネリウスに、神の言葉を聞くためにペトロを招くように、という命令を与えておられたのでした。もちろん、コルネリウスの神の言葉を聞く姿勢は、決して一朝一夕にして養われたものではありません。彼が、ローマ人でありながらユダヤ人と共に礼拝に参加し、聖書の教えを聞いて祈りをささげ、人々に施しをする敬虔な生活を重ねていく中で育てられたものでした。そして、そのような敬虔な生活をする意思自体が、神によって特別に授けられたものであったと言わねばなりません。神の言葉に謙虚に耳を傾けるという意思を授かったのは、すなわちコルネリウスが神に導かれた人であったということです。

コルネリウスの敬虔な姿勢は「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」という最後の言葉によく現われています。それは、何よりもペトロの語る言葉が単なる人間の語る言葉としてではなく、神の言葉として聞こうとする姿勢です。しかも、コルネリウスがペトロから期待している神の言葉とは、「主があなたにお命じになったこと」です。ここで「主」とはイエスのことです。ですから、コルネリウスはペトロからイエスの福音を聞こうとしているのです。いわばペトロという人の人格をとおして、ペトロがイエスから聞いたことを、私たちもお聞きしたいとコルネリウスは言っているのです。

・しかも、コルネリウスは「神の前にいるのです」と言っています。神の言葉を聞く以上、単にペトロという人間の前にいるというのではなく、ペトロを通して語る神の前にいると自覚しているのです。神から遣わされたという確信をもって語るペトロと、神がペトロを通して語って下さるという確信に満ちたコルネリウスの姿は、福音を語る者と福音を聞く者の本来の姿を示していると言えるのではないでしょうか。

・このコルネリウスとペトロの出会いの物語を読んでいて感じるのは、神の言葉であるイエスの福音を共有するということにおいて、与え手であるペトロと受け手であるコルネリウスの両者が、こんなにも強く熱い思いを与えられていたということに、驚きを覚えまるものです。それは、神の前で、イエスの福音を分かち合うことの喜びがどんなに大きかったかということの現われと言えるでしょう。

コルネリウスとペトロは互いに神の働きかけの経験を語り合い、示されたところを分かち合ったに違いありません。そして、聖霊が自分たちをひとつに結び合わせていることを信じ確認したに違いありません。信仰者の出会いの喜びは、ともにひとつの聖霊に聞き従うことによって結びあわされる喜びです。こうしてペトロとコルネリウスを取り巻いている人々は、「みな神のみ前にまかり出」(33節)ているのです。神のみ前に共にまかり出て、そこで互いを隣人・兄弟・姉妹として発見すること、それが「福音」の経験ではないでしょうか。そこが「中垣」の取り除かれる場となるのです。ですから、異邦人伝道は、異邦人に何かを伝えることではないし、異邦の地で何かを伝えることでもありません。いつでも、どこでも、誰とでもともに神のみ前にまかり出ること、共にひとつの聖霊を受けること、共につくしかえられることなのです。「回心」したコルネリウスだけがつくりかえられたのではありません。ペトロもまたつくりかえられたのです。異邦人伝道とは、このような意味において「ともに福音にあずかる」(第一コリ9:23)ことにはかならないからです(清重尚弘)。

・最近日本基督教団では伝道企画室を作って、「それ行け、伝道」を実践しようとしています。この伝道企画室は、高齢化し教勢減退の教団諸教会の現実をなんとかしようとして、教勢を拡大しようという切実な思いが背後にあるように思われます。しかし、福音宣教(伝道)は一方的な教会の働きかけではありません。教会の福音宣教とは、全ての人に働きかけていてくださる神のみ前で、イエスの福音を分かち合うことです。そしてお互いに他者を隣人として、兄弟姉妹として発見し合う出来事であります。私たちの中には様々な人間と人間を分け隔てる中垣があります。けれども、神のみ前では人と人とを隔てる中垣はありません。パウロがガラテヤの信徒への手紙3章28節に、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と語っているとおりです。

・このことを教会という観念的な共同体の中だけではなく、全ての人に働きかけている神のみ前で、イエスの福音を共にすることによって、被差別部落差別、在日コリアン及び滞在外国人差別、性差別、日雇い労働者・野宿者差別など、また民族主義国家主義的な差別という現実的に人と人を分かつ中垣が取り除かれ、お互いに隣人として、兄弟姉妹として発見することができるとすれば、まさにイエスの福音を共にする喜びなのではないでしょうか。それこそが、教会の福音宣教(伝道)ではないでしょうか。