なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信復刻版(156)

      黙想と祈りの夕べ通信復刻版(156[-51]2002/9/22発行)


 昨夜Nさんの棺前祈祷会(私たちの教会での前夜式い代わるもの)に出席するために新日本基督

教会に属するK教会に行きました。Nさんは当教会の会員でしたが、数年前にK教会に転会されまし

た。ですから、私は生前Nさん2,3回お会いして話しています。棺前祈祷会でK教会の牧師から祈

るように言われ、私は祈りの中で、Nさんとの生前の交わりを通して気にかかっていましたことを

祈りました。それは、70年代の東京神学大学の闘争の中で、当時の東京神学大学の学長をしておら

れたT先生が急逝されたことに関係します。T先生はNさんが洗礼を授けていただいた牧師であり、N

さんは大変尊敬していました。NさんはT先生が急逝されたのは学生の暴挙ではないかと考えておら

れたようです。日本基督教団という教会の中でどうしてそんなことが許されるのか、という疑問を

抱いておられました。生前私もそのことを問われました。私の理解する限りのお話をしましたが、

Nさんは納得されなかったと思います。棺前祈祷会の祈りの中で、私はそのことに触れ、今神さま

もとに召されたNさんに神さまがその思いに応えてくださるようにと祈りました。Nさんの生前の問

いにNさんの納得できる説明が私には出来なかったのではないかと思うのです。神さまにお委ねす

るほかありません。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。5年前の9月17日に私のオバが亡く

なった。そのオバとは小さい頃に会っただけだったが、たまたま5年前の4月に私が入った看護学

校の近くの病院にそのオバが入院していた。自分の入学をオジに知らせたら、オジからそのことを

知り、見舞ってくれと言われた。何も状況が分からなかったので、話を聞くだけだったが、毎日の

ようにオバを見舞いに行った。自分も看護学校に入って家から離れていたので、寂しかったのかも

知れない。夏休みの一カ月は、オバの見舞いには行かなかった。9月に入って、オバのところに行

ったら、大変弱っていて、それから20日くらいで亡くなった。オジからオバが見舞いに来てくれた

ことを喜んでいたことを伝えられた。夏の一カ月何故見舞いに行かなかったのかと悔やまれる。オ

バと出会って別れを経験して、一日一日を大切にしていかなければと学んだが、今もそう思ってい

る。

 続けて別の方から発言がありました。昨日性差別問題特別委員会の講演会に出席し、「セクハラ

は何故起こるのか」という講演を聞いた。大学に関わっていると、大学は聖域だから、まさかセク

ハラなど起こることはないという空気があったが、20年前に事件が発覚して調べてみると、いろ

いろなところで起こっていることが分かった。1989年頃から裁判が行われるようになった。最

初は強姦でも、どこまで女性が抵抗したかということが問われ、女性の立場が正当に認められない

こともあったが、徐々に女性の立場が受け止められえるようになって来ている。セクハラを受けた

女性が、その受けた傷のために一歩も家から出られないというケースもある。働いていた女性が仕

事に行けなくなったり、学生は学校にいけなくなるということで、そのような女性のためのデーサ

ーヴィスを立ち上げる準備をしている。性の間違った方向から自由になる方向に運動を進めたいと

のお話でした。世の中は、セクハラが起こらないようにという不自由の方向に進んでいる。電車の

中で両手を挙げる男性など。男と女のジェンダーを超えた女性学、男性学の教育、人権の教育が必

要。ノーはノーと言えるようにしなければと思う。いろいろ書いたものを読んでいて怒りに震える

こともある。テレビを見ていて腹が立つこともある。電車のチラシにも。けれども、何もしていな

い自分が腹が立ったりする。そうした痛みのある人がいることを公にしていかなければ、この問題

は解決しないと思う。教会が男も女もなく、役割においても縛られないスペースになって欲しいと

思う。


        「教えと理解」(『ルターの日々のみことば』より)

 もしキリストがよみがえられなかったとすれば、あなたがたは、いまなお罪の中にいることにな ろう。               第一コリント15:17

 もし福音をのべ伝えようとするなら、なによりもまず、キリストがよみがえられたことをのべ伝

えなければなりません。この事実をのべ伝えなければ使徒ではありません。なぜなら、これこそわ

たしたちの信仰にとってのもっとも重要な事柄であり、このことについてよく教えている書物はも

っともきよく、もっとも高貴な書物なのですから。最大の力はわたしたちの信じる事実の中にあり

ます。復活がなければ、わたしたちにはなんの慰めも望みもなく、キリストがなし、また苦しまれ

たすべてのことは空虚になってしまうのです。ですから、わたしたちはこのように教えなければな

りません。

 主は、あなたの罪と、死と、よみをご自分の上にとり、そのすべての重荷を負ってくださった。

しかし、主はあまりにも強かったので、それらすべての下からよみがえられ、征服せられ、従わせ

られた。主はこれによって、あなたがたが自由になり、これらのものを支配するようにされたので

ある。もし、これを信じるならば、あなたがたのものになる。

 わたしたちキリスト者は、どれほどよく、この事実を知らなければならないでしょうか。この書

簡がわたしたちにとって、どれほど明確にされなければならないでしょうか。

                             ペテロ第一の手紙講解