なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(86)

 

7月19(日)聖霊降臨節第8主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

 

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

                            (ローマ5:5)

 

③ 讃 美 歌  151(主をほめたたえよ)を歌いましょう(各自歌う)。

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-151.htm

⓸ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

 

⑤ 交 読 文  詩編96編7-13節(讃美歌交読詩編106頁)

        (当該箇所を黙読する) 

 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書19章13-30節(新約37頁)

        (当該箇所を黙読する)

 

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

 

⑧ 讃 美 歌   105(ガリラヤの村を)を歌いましょう(各自歌う)。

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-105.htm

説教 「子供と富める青年」 北村慈郎牧師

祈祷

 ・ 先週に続いて最初に吉本隆明について触れさせてもらいたいと思います。吉本に 『貧困と思想』という本がありますが、その本にちょうど今日の金持ちの青年の話に触れているところがありますので、そのところを紹介させてもらいたと思います。それは、親鸞のことをテーマにして書いているところですが、そこには、このように書かれています。

・ 「たとえば新約聖書を読めば、若い男が来て『私はユダヤ教のすべての戒律を守っているが、この上なにをしたらいいか』と聞かれたとき、キリストはすべてを捨てて俺の後についてこい、と言う。しかし金持ちの家に生まれたその男はそこまでの度胸がなくて、しょんぼり帰って行くという話があります。

 ・ 日本で言えば一遍がそういう思想です。彼は花籠一つ持ってはいけない、花籠一つで欲望が芽生える、という。要するにこれは放浪生活です。放浪して行き倒れたらそこが浄土だ、と言う。一遍がキリストの影響を受けたとは考えられないので、宗教家の偉い人は同じことを言うんだな、と思いました。

 ・ これは無執着になればこの現実社会はそのまま浄土と同じになる、天上と同じような理想社会になるという考えで、いくら傍らからそんなアホな話信じられるか、と言っても、ご当人もそれについていく人も本気です」。

 ・ 吉本はこのように言っているのですね。

 ・ イエスや一編の放浪生活は、物への執着が無くなれば、「この現実社会はそのまま浄土と同じになる、天上と同じような理想社会(聖書的に言えば「神の国」)になるという考え」からきていると。

・ 今日のテキストであるマタイ福音書の個所には、金持ちの若者の話と並んで、子供を祝福する記事もあります。恐らくここに出てくる子供は、親が連れてきてイエスに祝福を求めた子供ですから、幼子と考えられます。そこでは、イエスは子供たちを「天の国はこのような者たちのものである」と言っています。

 ・ 金持ちの若者と子供とどこが違うのかと言えば、金持ちの若者は、この聖書の物語では自分の財産への執着を捨てきれなかったわけですが、子供は富や財産には無執着ではないかと思わされます。また、子供は自分はこんなにたくさんの良いことをしたから偉いんだというようなことは全く考えません。つまり何をしたかということをもって自分が神の国の住民になれるんだというようなことは、子供は考えません。徹底的に子供は委ねて、受け身で生きています。ですから、子供が虐待を受けた場合、無抵抗で殺されてしまうのです。

 ・ このような聖書の話を聞きますと、私たちはちょっと戸惑いを覚えるのではないでしょうか。なぜならば、私たちの実際の生活は、子供たちのようにはれないし、かといって、全財産を捨ててイエスについていくというわけにもいかない。不徹底と言うか、優柔不断と言うか、いい加減と言うか。日常の私たちの生活は、放浪生活ではなく、もっと大分緩やかな生活だと思います。

 ・ 吉本は、「人のことも時によって考えるけれども、やはり自分のことをまず考える。富とか貧困についても、自分が富めればそれでよく、ことのついでがあれば貧困を救済するために何らかをすればいい、という考え方です。福祉の問題はこういうことなのだと思います。一般社会とはこういう緩いものです」と言っています。

 ・ 実際の私たちの生活はそのような一般社会の枠の中で営まれているのではないでしょうか。

 ・ タイセンという人はイエスの運動を「放浪のラディカリズム」と言っています。町や村を弟子たちと共に移動して、病人や悪霊に憑かれた人を癒していく。どこかに定着して集団を構えるというわけではありませんでした。ですから、このマタイによる福音書の金持ちの若者の物語の中でも、ペトロの、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」という問いに、マタイによる福音書のイエスは、「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(27-29節)と語っています。

 ・ このところを読みますと、イエスの弟子たちは、それまでの自分の生活を捨ててイエスに従って、イエスとともに放浪生活をしていたと思われます。

 ・ このように富める者と冨について論じられている今日のテキストと、私たちの実際の生活は、ある面でかけ離れているのではないでしょうか。私たちは全財産を貧しい人に施して、イエスに従って放浪生活をしているわけではありません。ですから、私たちはこの聖書の箇所と真剣にぶつからないで、自分の生活の上に立って、この聖書の個所を横目で流して読んでいるのではないでしょうか。そういうように言っている人もいます。

 ・ ルツは、宗教改革によって生まれたプロテスタントの教会各派の考え方(神学・思想)において、このテキストは、「ほとんど専ら抑圧また弱体化の歴史であった」と言っています。

 ・ つまり、このテキストとまともに向かい合わずに、押さえ込んで無視したり、自分たちに都合の良い解釈をして、このテキストが本来持っているインパクトを弱めてきたと言うのです。

 ・ ですから、ルツは、「われわれプロテスタントは、イエスと原始キリスト教にとって明らかに神の国と富との間に根本的な緊張があったこと、またなぜそうであったのか、それらのことを新たに学ばなければならない。われわれは金銭との交渉が信仰の焦点であることを再び学ばなければならない」と言っています。

 ・ 私たちは、マタイ福音書の山上の説教の中で既に「神と富とに仕えることはできない」というイエスの教えを聞いています。そのところをもう一度読んでみます。≪「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富に仕えることはできない」。≫(6:24)と言われています。

 ・ 「私はユダヤ教のすべての戒律を守っているが、この上なにをしたらいいか」と言う金持ちの青年に対してイエスは、≪もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい≫(21節)と言われました。そこで金持ちの青年は悲しそうに立ち去ってしまったのです。

 ・ 現代の社会に生きています私たちは、お金がなければ何もできないと思いがちではないでしょうか。事実今新型コロナウイリス感染拡大の中で、仕事を失って、お金が無くなってしまい、路上に放り出される人もいます。そのような人は生活保護を申請して生活保護を受給して生活を維持することができればいいのですが、中にはその道も断たれて、命の危険に晒されている人もいるでしょう。現代社会ではお金がないと生きていけません。そういう社会ではお金が神さまなのです。私たち自身も日常生活の中でそのことを痛切に感じているのではないでしょうか。

 ・ それでも自分はイエスに従って生きるキリスト者であるという自覚も、私たちは持っていると思います。その際、私たちの中には神と富の二人の主人に仕えていることはないかどうか、そのことを今日の聖書箇所は私たちに問うているのです。

 ・ ルツは、「イエスの信従である服従は、その中心的なこととして、自分固有の金銭との交渉を変えるものでなければならない。(と言っています)。

 ・ (続いて)それに加えて、私が思うに、われわれプロテスタントは、平均的・市民的キリスト教を越え出て、(すべてのキリスト者がそのようにならなければいけないと言うわけではないが、中には)・・・非常にラディカルな形態のキリスト教的愛と献身があってしかるべきではないかということも新たに熟慮すべきである。金銭は世界を支配し、イエス信従はこの『支配』に対する愛の抵抗だからである。そのような、もう一つ別の生活形態の愛が一体今日どのような外観を呈するのか、われわれはこのテキストに照らして創造的かつ幻想豊かに熟慮しなければならない」と言っています。

 ・ (ここでは、カトリックで言えば、死にゆく人々の看取りをする修道会「神の愛の宣教者会」の創立者であるマザー・テレサのよう働きが、プロテスタントにあってしかるべきではないかと言われているように思います。)

 ・ 「しかし、(私的また教会的)財政の領域において変化をもたらすことのないいかなる現実化もこのテキストを素通りするものであると私は考える」と。

・ マタイ福音書の「子供を祝福する」テキストには、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」という言葉がありません。マルコとルカの並行記事にはこの言葉が「子供を祝福する」テキストにあります。この言葉はマタイ福音書では18章の3節に出ていました。「天の国でいちばん偉い者」という説話の中にです(マタイ18:1-5)。

・ 「子供のようになる」ということです。「幼な子とは、自分の努力や業績に基づいて、救いを要求する力を全く持たず、ただ無条件に受けることしかできぬ存在である。イエスの恵みは、上から臨む愛として注ぎ出されたのであって、ただ無条件に信じて受けることしかできなこの。この信仰の消息は、幼な子の中にこそ端的に見られる」(赤橋三郎)と言えるでしょう。

・ 私たちは、金銭を得なければ生きていけませんので、金銭を得ますが、幼な子のようにその金銭に執着せず、上から注ぐ愛としてのイエスの恵みを一身に受けて、信じて生きる。そのような者へと私たちは招かれているのではないでしょうか。

・ 幼な子のように金銭や物に執着せず、無心に信じなければ、自分の力や業績でその招きに応えて生きることはできません。

・ 23節から26節までを読んで終わります。≪イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが金持ちが、神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。弟子たちは、(ユダヤ教の教えに従って、富は神の賜物で、富める者は神に祝福された人間と考えていたので)、これを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた≫のです。

・ 「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。バルトは、この26節が「全テキストの『中心点』であり、それのみがわれわれの教会がこのテキストを獲得し直す、ないしはこのテキストによって生じた固定した構造を打ち砕くことを可能にする。」と言っています。

・ 「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。

 

祈ります。

 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。今日は幼な子と金持ちの青年の物語を通して、お金という神(マモン)への崇拝が現実社会を根本的に歪め、そのことによって私たちの命と生活がいかに脅かされているかを考えさせられました。「神と富という二人の主人に仕えることはできない」というイエスの言葉を噛みしめて、幼な子のように無心に上より注がれているあなたの愛を受けて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」という神の可能性に自分をかけて生きていけますように、私たち一人一人をお導きください。

また、コロナの感染が広がりつつあります。政府も自治体も検査をして陽性者を隔離して、陽性者が陰性になるまでは、陰性者のみで社会を動かすという根本的な対策を回避しているように思われます。そのために感染者の拡大が止まらないことを危惧しています。神さまどうか公の権力についている者たちに賢明な判断ができる力をお与えください。このことで苦しむ人々を顧みてください。特に生活が成り立たなくなった方々の適切な援助の手が差し伸べあれますようにお導きください。 

今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りくださ。様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えてください。

この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌   522(キリストにはかえられません)を歌いましょう(各自歌う)。

 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-522.htm
⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)   

讃美歌21 28(み栄えあれや) https://www.youtube.com/watch?v=3l91WrdhoAo

⑬ 祝  祷

イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

 ・ これで礼拝は終わります。