なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(4)

 昨日は久しぶりに国会前で毎週月・木午後1時から4時まで行われています辺野古基地建設反対の座り込みに行ってきました。木曜日は私の連れ合いがいつも行く日でしたが、この日彼女の都合が悪く、私が参加しました。午前中船越教会で横須賀市による道路側の土地の境界線確認に立ち合い、それから出かけました。国会前に座り込んでいますと、いろいろな方にお会いします。陳情や院内集会に来る方がいるからです。今日もアフリカのスーダンへの自衛隊派遣の問題で院内集会があったようで、そこに出られたBさんが私たちの前を通り、向こうから私を見つけて話しかけてくれました。また、牧師のTさんも同じ院内集会に出た後、夕方まで時間があるからと私の横で座り込みに参加していきました。
 さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信」を再録します。
 
 
黙想と祈りの夕べ
   (通信№ 4  19991024発行)
 
 3回の「黙想と祈りの夕べ」を行なって、この会の一つの方向が見えてきたように思いました。その方向は、私がこの会を計画したときに考えていたものと重なります。それは、「祈りの共同体」という教会がもつ姿です。別の切り口から言えば、「共苦の共同体」としての教会と言えるかも知れません。この日の「黙想と祈りの夕べ」における「分かち合い」で、私は、前任の名古屋の御器所教会で関わった一人の脳性マヒの兄弟についてお話しました。彼が同じ脳性マヒの女性と、それまで生活していた施設の寮を出て、共同生活をしたことです。一組の障害をかかえた男女が自活して共同生活をするということが、どのようなことなのか、私は、彼らの生活を通してその一端に触れる機会が与えられました。お互いにそう軽いとは言えない脳性マヒでしたので、それぞれの心身の変化が激しく、そのことに伴って二人の関係性の振幅も大きく揺れます。私たち夫婦には考えられないものがありました。そういう二人を周りの人がどうサポ-トしていったらよいのかも、試行錯誤の連続でした。彼女の体調が落ちていた時、ヘルパ-として教会の人に行ってもらいましたが、ほとんど掃除や洗濯の仕事はさせてもらえず、話してくるだけでした。行ってくれた人も、かえって気を使わせるので、行かない方がいいのでは、ということになりました。けれども、話し手として行くだけでもいいのではとうことで、何回か二人のアパ-トに行きました。私たちも、妻が夕食を作って、私が自転車で届けるということも、しばらくしたことがあります。結局、それも彼女が苦になり、やめました。元気な頃は、彼女が後に荷台のついた三輪の自転車で彼を彼の仕事場に送り迎えするほどでした。けれども、彼女の方が頚椎の損傷による痺れがひどくなり、入院して手術するようになりました。彼は献身的に不自由な体で、病室に泊まり込んで彼女の看護に励みました。手術の結果はよくなく、再び体を動かすことができない状態のまま、全身にわたる激しい痛みを訴えながら、しばらくして彼女は、自分が望んだ二人のアパ-トに帰り、そこで亡くなりました。
 この二人の話をした後の、「執り成しの祈り」の自由祈祷で、一人の姉妹が、その日の経験を祈りの中で語られました。昔自分が教えたことのあるダウン症の人との偶然の出会い、犬の散歩の途中で癲癇発作でうずくまっていた子を見て、親に連絡し救急車で病院へ送ったことなどです。教会という枠を越えたこの世の只中に働く神に導かれていることを、彼女は祈りました。さまざまな人の苦しみ、悲しみを、自らのものとして担っておられる主イエスに連なる者は、苦難の共有(簡単には共有などできないが)を通して、主イエスにある希望と喜びをも共有する道へと導かれることを信じます。そんな「共苦の共同体」⇄「希望と喜びの共同体」が「祈りの共同体」としての教会ではないのかと思いながら、「黙想と祈りの夕べ」を続けて行きたいと思っています。
 もう一つ、ここで報告しておきたいことは、「黙想と祈りの夕べ」の後の「交わりの時」に、ブル-ムハルト親子のことが、一人の方から話題としてでました。「ひとりの人のために真剣に祈ることを、私たちはどれだけしているだろうか」という問いかけと共にです。ブル-ムハルト親子については、私が尊敬する井上良雄先生が本を書いています。『神の国の証人ブル-ムハルト父子』(新教出版社)です。大変すばらしい本ですので、紹介しておきたいと思います。