「隔てを越える」イザヤ書42:1-9、
マルコによる福音書2:13-17、
・ ・ 13節に出てくる「湖のほとり」(「海べ」)というのは、ガリラヤ 湖の辺(ほとり)であります。この場所は、生前イエスが主に活動され たガリラヤ地方、特にその拠点になった町カファルナウムの住民にとっ ては、ごく日常的な場所でありました。憩いの場所であり、祈りの場所 であり、漁師にとっては仕事の場所でありました。そのような人々の日 常的な場所であるガリラヤ湖のほとり(海辺)が、マルコによる福音書 によりますと、シモン(ペテロ)とアンデレ、ゼペダイの子ヤコブとヨ ハネの兄弟たちが、イエスによって召命を受けて弟子となった場所であ り(1:16ff.)、しばしばイエスが民衆を教えられた場所であり(2:13、 4:1)、そしてイエスと弟子たちが退かれた場所であります(3:7)。- 休みと 祈りの場所-。ここには、人間の日常的 な営みの場所が、 イ エスの固有な活動の場所であるということが示されています。
・・ 人間の日常的な場所としての「湖のほとり」は、湖畔の町や村に住む住 民の様々な思いを映し出しています。そこが民衆にとって一時の憩いの 場となる時、その場にいる人々は、日々の厳しい労働によって疲れ切っ ている人々であります。当時のパレスチナは、一部の特権階級を除い て、殆どの民衆は相当厳しい労働を強いられていたと言われますから、 憩いの場としての海辺は、民衆の重い生活を反映しているともいえまし ょう。生活の場になっている漁師やその家族にとってもおなじでしょ う。また、そこで祈りや瞑想にふける場合にも、人々が負う人生の悲惨 や苦悩が、そのような人々の心を捕らえていたに違いありません。ま た、その海辺は若い男女の愛の場であったことでしょう。悲喜こもごも な日常的生活の場ありました。しかしそのような人々の日常的な生活の 場のなかに、そこに生活している人間が造り出した、人と人とを分け隔 て一方が他方を蔑み、支配抑圧する壁が張り巡らされているのでありま す。
・ ・ 女やこどもは、イエスの時代の家父長的なユダヤ社会では、成人男子の ような一人前の人間として受け入れられてはいませんでした。四つの福 音書のすべてに出てきます、少しのパンと魚を沢山の人々で分けて食 べ、みんなが満腹して、なお多くの余りがでた、というパンの供食の物 語のなかでは、そこに集まった人々の人数が記されていますが、「男50 00人とか男4000人」という風に、男の人数としてしか記されていませ ん。女・こどもは、群衆がどれくらい多くの人であったのかを示す場 合、その数に入れられないのです。家父長的な社会では、日本の場合で も戦前はその傾向が支配的だったと思われますが、若い女の人が結婚す る場合、父親が選んだ男性と結婚することが多いのです。好きな男性が いても、父親のお眼鏡にかないませんと、結婚できなかったのです。そ ういう家父長的な社会では、女とこどもは、たとえ父であり夫であって も、自分以外の人によって自分がどう生きるかがか決められていたので す。これは一例に過ぎません。そのような人を蔑み、支配抑圧する壁の ようなものが張り巡らされているのが、湖のほとりであり、ガリラヤ湖 畔の町でありました。
・ ・ そのような場所で、イエスは民衆に教えを語られたのであります。13 節の「……イエスは教えられた」と訳されている言葉は、「過去の習慣 的な行為」を表す時制の動詞が使われています。田川建三氏の訳では、 「イエスはいつも彼らを教えていた」となっています。マルコは、海辺 で、あるいは家で(2:1ff.)、丘で、そのような人々の日常生活のただ 中で、彼のところに集まってくる人々に向かって教えるのを常としたイ エスの姿を描いています。
・ ・ イエスの教えは、学者のような知識の断片ではありません-律法学者は 律法の知識を断片的に教えていた-。道徳的な勧め、人生訓的な知識で もありません。神の存在を思弁的に説明するのでもありません。福音書 の残されている多くの譬え話や山上の垂訓から知ることの出来るイエス の教えは、生ける神の現臨、神の現在の言い表しであります。人間の知 恵や知識によらない、あるいは権威を盾にしての語りでもありません。 そしてまた、人間的な歪みもない神に対する絶対的な信頼を、御自身の 生き様で示しています。イエスは身近なものによって、神が人間にどの ように関わりたもうかをありのままに語ります。野の花、空の鳥を指し て、神の配慮の偉大さについて語られ、人々を思い煩いから解放しま す。
・ ・ 人々は何故イエスの教えに驚いたのでしょうか。「人々はその教えに驚 いた。律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えたからであ る。」(1:22)、「これはいったい何事か、権威ある新しい教え だ。……」(1:27)。イエスの教えの権威とは何でありましょうか。 「野の花」「空の鳥」は、徹底的に受け身の存在であります。われわれ は花や鳥を見て、あの花は美しい、これはそうではない。あの鳥はかわ いらしい、この鳥はそうではない、という評価を下すかも知れません。 しかし、花や鳥は、それ自身で自足しています。小さな野の草(花)と 比べても、ゆりやバラが特別なのではありません。特別と見るのは、人 間であって、花その物はそれぞれに美しいのです。花はそれぞれの美し さによって野をにぎわしています。イエスは「今日ははえていて、明日 は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのな ら、あなたがたに、それ以上よくして下さらないことがあろうか」と語 られます。
・ ・ 現代のわれわれは、この言葉を正しく理解することが大変困難な状況に 置かれています。資本主義社会の中では、人間の物質的所有は、より多 くお金を持っている者へ集中します。労働者であれば、利潤追及におけ る有効性によって、その人間が評価されます。現代の社会では、人間が 人間を極めて主観的に評価することが常識になっています。そこには恐 ろしい人間の高慢があるのですが、あたかもそれが当然であるかのよう に考えられているところに深刻な問題があるといえます。しかし、イエ スは、神の配慮(愛)は、あらゆる人間の営みを越えて、人間の営みの 計りによらず、人間の営みの場である日常性のただ中で、全ての者に注 がれている現実(リアリティ-)であること、言葉と彼ご自身の全生涯 をもって、証言しているのです。イエスの時代にあっては、律法によら なければダメだとする、そのことによって義人と罪人を俊別するような 考えと生き方に対して(人間の行為を功績によって量る生き方)、全て のものの〈はじめ〉に、その〈根底〉にあるものとして、人間がそこか ら始め、そこへ至る、〈はじめ〉であり、〈終わり〉である究極的な支 えとしての、無償の神の愛の下にわれわれがあることを、そのものとし て鮮明に開示したのであります。病気の人であれ、悪霊につかれている 人であれ、収税人であれ、遊女であれ、その人間の状態(病める)や、 犯した罪によってさえ、また老いている者であれ若い者であれ、女であ れ男であれ、我々に注がれている神の愛は微動だにしないことを、イエ スはご自身をもって示しているのであります。
・ ・ そのような神の愛にわれわれが全人格をもって応えていくとき、あの野 の花がそれぞれ自足しているように、それぞれの個性をもった人間が、 他者を支配したり、他者に隷属したりすることなく、与えられた賜物を 私物化することなく生かし、全体として神の栄光を表すものとなるので あります。その完成は終末における約束でありますが、イエスの到来に よって、既にわれわれの中に成就している出来事であります。キリスト 者はこのことをイエスにおいて信じる者です。イエスご自身が全存在を もって開示された真実がわれわれ全ての者に与えられているというこ と。そのイエスの真実に、この世がどんなに逆らい続けたとしても、そ れに向かって先ず心を開き、受け入れる者として、すなわち、イエス・ キリストを受け入れ、イエス・キリストのゆえに存在が許されている 者、それが、キリスト者です。バルト流に言えば、キリスト者は、自分 自身の中心を自分の外側に持っている人のこと、つまり自分にではなく イエス・キリストという対象を自分の中心として生きている人間のこと であります。
・ ・ このように、自分の中心を外側に持っている人としてレビがいるのであ ります。アルパヨのレビという一人の収税人に対して、「わたしに従っ てきなさい」と、招きの言葉が語られます。レビは、イエスの時代のユ ダヤ人社会の中で、社会的には下層に属し、多少は小金をためこんでい たとしても(ルカ10章に出てくるザアカイ〈収税人頭〉とは比べもの にならなかった)、収税人という職業からくるいやしめとともに、職業 上異邦人と接する機会も多く、汚れた者とみなされていたのでありま す。一つの町や村から別の町や村に入ったり出たりする所にいて、人々 から通行税を徴収していたのでしょう。ロ-マの税の徴収は請負制度で す。直接ロ-マから税の徴収を請け負った人が、自分の地域を分割し て、それぞれを請負う人を立て、更にその人がレビのような末端の徴税 人を使って税を集めさせていました。そういう意味では、レビは末端の 徴税人でありましたから、それだけ直接人々の蔑みを受けていたのでは ないでしょうか。
・ ・ レビは、そういう自分に「わたしに従いなさい」と声をかけたイエスと の出会いを、どんな思いで受けたでしょうか。それだけではなく、自分 の家にイエスが彼に従っていた弟子たちと共にやってきて、自分と同じ ように人々から蔑まれていた仲間と一緒に食事をしてくれたのです。し かも、イエスは押しつけがましくではなく、レビのもてなしを心から喜 んでいたのでしょう。