なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(7)

「手をとって起こす」  歴代誌上29:6-19、 
           マルコによる福音書1:40-45            
  この記事は、内容的には二つの部分に分けられます。そして、二つの部分には、それぞれ違ったイエスの姿を見出すことが出来ます。
  40-42節、 ここでは、ひとりの重い皮膚病を患っている人がイエスのところに来て、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と跪いて願いました。それに対して、イエスが、「よろしい、清くなれ」(文語訳:「わが意(こころ)なり、潔くなれ」)と言われると、「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」というのです。イエスが重い皮膚病を患っている人をきよめたという話です。ここでのイエスは、全能なる神のように、重い皮膚病をの人に対しています。
  第二の部分は、43節以下で、きよめられた病人に対して、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」、もっと強い調子で、「誰にも何も決して言うな」(田川訳)と厳しく戒めているイエスです。そして、この病人が、自分に起こったことを言いふらし、触れ回ったため、奇跡的な行為者としてのイエスご自身の名声、偉大さが評判になり、「もはや公然と町に入ることができず」、町の外の人のいない所に留まっておられたイエスです。
  このように、今日のマルコによる福音書のテキストに描かれている、二つの異なるイエスの姿において、そこから私達は、何を読み取ることが出来るでしょうか。
  第一の部分について、先ず考えてみたいと思います。ここで登場している「一人の重い皮膚病を患っている人」とは、どのような人であったのでしょうか。イスラエル社会において、重い皮膚病の人は特別に自分の生を呪わざるを得ない状態に置かれていました。彼らは、二重の意味で苦悩を背負って生きていかざるを得ませんでした。一つは、〈病気〉そのものからくる苦痛である。病気としての肉体的な苦痛の上に、重い皮膚病で皮膚が犯され、奇形を起こし、外観が醜悪化することにより、人々から恐れられ、嫌悪されたのでした。精神的苦痛も大変大きかったでしょう。それだけではありませんでした。イスラエルにおいては、このような病気の人は、神に打たれた者という思想から、罪ある者、汚れた者とみなされていたからです。旧約聖書レビ記1314章に皮膚病について述べられていますが、彼らは、汚れた者として聖なる集いに加わることが禁じられていました。イスラエルの交わりから断たれていたのです。彼らは社会から閉め出され、人々の憐れみにすがって、最低の生存を続けるほかありませんでした。町や村の中には住めず、町や村のはずれにある谷などで彼らだけで生活させられた。一種の隔離である。そして、彼らの隔離所付近に通行人があるときには、自分のほうから「汚れた者、汚れた者」と叫んで、通行人に近づかぬように、自ら警戒を与えなければならなかった。
  このように、病気そのものからくる苦痛と、イスラエルという共同体(共同の社会、その中でしか彼らも生きていくことはできなかった)から除外されてしまっているということから来る精神的苦悩は、私達の想像を絶するものであろう。
  そのような「一人の病人」がイエスに懇願する。「御心でしたら、わたしを清くすることがおできになります」と。このひとりの病人が、きよくなりたいという切実な願いを常に持っていたことは疑い得ない。しかし、法(律法)の規定によって汚れた者とされている以上、この自分の願いがかなえられることは、100パ-セントあり得ないことも知っていたに違いない。イスラエルの人々にとって、律法は、神の 意思の現れであったからである。しかし、イエスの出現は、この病人のそれまでの認識に根本的な変化を引き起こさずにはおかなかった。人々からも神からも見捨てられたと思っていたこの病人は、決して見捨てられた者ではないのだということを、イエスによって知るのである。ここで、「御心でしたら……」とあるが、これは、もしあなたがおのぞみになるならば、つまり、もしあなたが意思するならば、という意味である。この病人の言葉は、ゲッセマネの祈りにおいて、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」(Mk.14:36)と祈ったイエスの祈りを思い起こさせます。神の意思に一切を委ねて、服従するイエス。同様にこの病人も、イエスに対して神の「意思」を問う。神の意思によっていっさいがなることを信じている。このような病人のイエスに対する態度は、信仰と言ってよい。彼はイエスにおいて神を信じている。イエスご自身が「アッバ、父よ、」と神に対してされたように、この病人はイエスに対するのである。これはどういうことでしょうか。
  この病人の前に立っているイエスは、単なる同伴者ではない。あるいは革命家でもない。むしろ、神ご自身と言えるかも知れない。イエスとの出会いは、この病人にとっては、まことの神との出会いである。イエスに出会うまでは、神が人間とどうのように係わりたもうのか、神の慈しみがどのように人間にも貫いて真実であるということを、彼は信じられなかったのである。重い皮膚病という病気と、その病気にかかった人間が、イスラエルの共同体にいれて貰えないという苛酷な現実に直面して、自分は見捨てられた人間だ、汚れた者(その当時のイスラエル社会が彼に押し付けてくるレッテル)だと、自分でも思い込まざるを得なかった。そんな彼が、イエスとの出会いよって、神の慈しみの深さに触れえたのであろう。神は汚れを心底から取り払う方である。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という叫びが、この病人の口から発せられる。ある人が言うように、この病人の叫びには、なお一つの暗さがある、ともいえよう。多くの病人が癒され、悪霊に取りつかれた者から悪霊が追いだされている。自分だけは別ではないか、という疑いである。私達もよく落ち込む疑いである。そのようなこの病人に対して、「イエスは深くあわれみ(「怒って」)、手を延ばして彼にさわり、「よろしい、清くなれ」(「わが意なり、潔くなれ」)といわれた。彼の疑いは、このイエスの言葉によって、完全に粉砕されてしまう。
  私達は、イエスとの出会いによって、まことの神と出会うのである。世への煩いと己の頑なさによって、見えなくなっている神の憐れみ(私達の味方としての神)に触れ、神の子供としての我に目覚めさせられる。イエスにあって、だれひとり見捨てられた人間はいない。虐げられている人の友になることによって、イエスは、この重い皮膚病のような人にも、また、この病人を虐げていても、それに気づけないこの病人を差別し、抑圧している者にも、神の下にある人間の自由をもって、神の子供として私達を招いているのである。
  それでは、厳しく戒められるイエス(「誰にも決して言うな」)、外の寂しいところにと止まっておられるイエスは、何を物語っているのであろうか。鈴木正久氏は、「イエスの偉大さは、十字架を抜きにして、認められてはならない。」という。十字架によらずに偉大たろうとすること。それはイエスと違う。十字架は最も厳密に、主なる神の力に、ただ主なる神の力だけに、私達の生活・歴史の基礎を据えることである。キリスト教も、教会も、真実の力の基礎付けを失ったときに、完全に無力化する。イエスの栄光は、ただ十字架の栄光である(ヨハネ福音書)。従って、きよめられたこの病人の宣べ伝えは、「だが、男は出ていって、大いに宣教活動をはじめ、また〈言葉〉を広めはじめた」(田川)、45節。マルコは否定的にとってはいない。
  ピリピ2:6-8「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって、死に至まで従順でした」。
  エスにおいては、神が神として、人間が人間としての交流が成立している。イエスにとっては、重い皮膚病の人は、そういう病を背負っているけれども、一人の神に命を与えられた尊厳ある人に変わりがない。重い皮膚病はそのような一人の人間としての尊厳をそこなう力でも、神によって命与えられた人間同志が支え合い、生かし合う者として共にあり、共に生きることを疎外し、隔てる力でもありません。イエスは一人の人間を苦しめる重い皮膚病という病に対しては激しい怒りをぶつけます。しかし、当時の多くのユダヤ人のように、重い皮膚病を患っている人というレッテルでその人をみません。重い皮膚病を患っていた人から、イエスは病としての皮膚病を取り去ると共に、神に愛され、命与えられた尊厳ある一人の人間として、彼を解放するのです。この人にとっては、そのようなイエスとの出会いは、この上ない喜びであり、人間回復の出来事でありました。どんなに語るなと言われても、語らないではいられないほど、彼には大きなことだったに違いありません。
  川田龍平さんは、幼い時、ウイルスの入った危険な血液製剤の注射を受け、エイズかかってしまいました。川田さんは、高校生の時、親友に感染していることを打ちあけたそうです。すると、友人はこう言ったというのです。「昨日(きのう)のお前と今日の前は、変わりはないよ」と。川田さんにとって、この友人の言葉は、大変大きな力であり、喜びであり希望であっただろうと思います。
  エスに出会って、重い皮膚病を癒された人の場合は、もっと根源的な経験だったにちがいありません。この病人を癒したイエスのまなざしによって、私たちが己れ自身を見、他者を見ることができるならば、私たちは自分自身や他者が病によってどんな身体であっても、私たち自身と他者自身の人格は、無条件に神に愛され、受け入れられていることを認められるであろう。とすれば、私たちは、自分も人(他者)も、その外見や振る舞いや行為によってではなく、その神によって与えられた命という何者にも代え得ない尊厳において受けとめることができるであろう。深い霊的な交わりにある者達として、神の下にあって自由に生き得るであろう。