なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(6)

マルコ福音書による説教(6)
 
「どんなときでも」 歴代誌下15:1-8、
          マルコによる福音書1:29-39  
                
  私たちの中には聖書の時代の人々と同様に、いろいろな苦しみを背負って生きている人々がいます。その中でも病気は私たちが経験する大きな苦しみの一つであります。現代社会に生きています私たちは、古代社会とは比べものにならない医学の進歩の恩恵を受けているのですが、それでも病気による苦しみは依然として克服されていません。ガンに対する恐れが、多くの人を不安に陥れています。私は牧師という立場上、これまで病院に見舞いに行く機会がよくありましたが、病院には実に多くの方々がいろいろな病気で入院しています。その一人一人には家族の方々がいらっしゃるでしょうから、病気によってその重荷を引き受けている人は、随分多くいらっしゃるのではないかと思います。重い病気は、健康で幸福な生活を願う私たちに立ちはだかる力にもなります。時には私たちを打ちのめしてしまう程の死の力にもなります。家族の中に病気の人がいますと、その病気が重ければ重いほど、家族全体に重圧がのしかかり、家族の方々からも希望を奪い、暗い気持にさせもします。
  医学は、病気の原因を究明し、その治療方法を発見し、人を助ける、人間の営みであります。医学の進歩は望ましいことでありますが、どんなに医学が進歩しても、病気がなくなるということは決してありません。そこに、病気に対する我々の対応として、治療への努力と共に、病気をどのように受け止めるかということが、私たちにとっての重要な問題になります。
  しばし私たちの中には、病気を因果応報として考えて、たたりとか、ばちあたりとして把える見方があります。それを利用して信者を獲得したり、浄財を巻き上げたりしている宗教もあるようですが、それは、人間の弱みに付け込むものであり、私にはなじめません。
  聖書の中にも、ヨハネによる福音書9章の「生まれつき目の不自由な人の物語」の中に、この種の見方がでてきます。生まれつき目の不自由な人を見て、弟子たちがイエスに尋ねた言葉に、「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」とあります。この考え方は、明らかに因果応報の考え方です。イエスは、それを否定しています。そして、生れつき目の見えないその人もまた、神のみ栄えのためにあることを示したのであります。大変明るい考え方ではないでしょうか。
  このイエスの言葉や行為の背景となっています旧約聖書におきましては、まだこのようなイエスの明るさは現われてはいません。「あらゆる現象が神に依存すると考える旧約聖書の民イスラエルの人々にとっては、病気とてその例外ではありませんでした。彼ら彼女らには、病気は神が人間に与える打撃と考えざるを得ませんでした」。
  ヨブ記19:21にこう言われている。
 「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ
  神の手がわたしに触れたのだ。」
   16:1112には、
 「神は悪を行なう者にわたしを引き渡し
  神に逆らう者の手に任せられた。
  平穏に暮らしていたわたしを神は打ち砕き
  首を押さえて打ち据え
  的として立て
  弓を射る者に包囲させられた。」
  ここで言われています、「神は悪を行なう者にわたしを引き渡し、神に逆らう者の手に任せられた」とあります「悪を行なう者」、「神に逆らう者」とは、神とは区別される人間存在以上の何者かが考えられています。ヨブの場合、それはサタンであります。ヨブ記2:7で、「サタン は主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた」と記されています。新約聖書の時代の人々は、「悪霊が病気を通して人間界に影響を及ぼす」という考え方をしていました。つまり、病気は悪霊がもたらすものと考えられていました。病気は本来あってはならないものであります。しかし、現実にこの地上に生きる人間には、そのような悪霊によってもたらされる病気によって苦しむということが存在します。それは何故なのだろうか。その問いが生じます。
  旧約聖書の人々は、このように考えました。「神は人間を幸福(祝福)のために創造したのである以上(Gen.2 )、病気は、人間の他のすべての苦しみと同様、創造主のこの深淵な意向に反するものである。病気がこの世にはいってきたのは、人間が罪を犯したからにほかならない。結局、病気は、神が罪深いこの世に向けて発した怒りの一つのしるしである」と。
  神に嘆き願う嘆願の詩篇の中には、病気の治癒を願うとき、同時に罪の告白がなされているところがあります(32:26)。神を信頼し、謙遜に自分の罪を告白し、神の恵みにより、癒されることを嘆願するのです。すると、この恵みが奇跡的に与えられることもあるのです。病気には何らかの意義が含まれているとしても、悪であることに変わりはありません。従って、預言者たちは、神は終末のときには自分の民を病気のない新しい世界に置くことを約束している、と語っています。 「その時、見えない人の目が開き、/聞こえない人の耳が開く。その時、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(Is.35:56)。
  苦しみも涙もない世界、罪から解放された未来の世界では、人類が連帯的に負うべき罪の結果も消え去るのです。ひとりの人(苦難のしもべ)が人類の病気をその身に引き受けるとき、人類は彼が受けた傷のお陰でいやされるであろうと。
  エスによる病気治癒を考えるとき、このような旧約聖書の背景から見る必要があります。イエスは、病気について説明するのではなく、病気をいやすのであります。そこでは、病気は単なる身体の一部の問題ではなく、人間存在全体に関わる問題として捉えられています。病気は医学的に取り扱われる場合は、常に身体の一部の機能障害として取り上げられます。そこでは、人間の罪ということは、全く考えられません。しかし、聖書では、病気は、単なる人間の身体の一部の機能障害としては考えられていません。病気と罪との関連が問題とされることによって、私達の存在そのものに関わる「病い」が問題とされているのです。そしてそのような病いが、現実的に「熱病」「らい病」「中風」…として、人間を悩ましていると見られています。
  病気が人格の問題として捉えられています。イエスは病人を癒します。イエスにとって病気は人間を苦しめる悪であり、罪の結果であり、人間に対するサタンの力の現れであると考えられていました(Lk.13:16)。イエスは病気を癒すことにより、その人間を正常な状態(神と隣人に対する真実な関わり)に回復します。悪霊の支配から神との交わりへと。
  病気は死のかげであります。病気の治癒、つまり、人間が健康体になるということは、死の支配からの救済なのです。そこではじめて、人間が真の健康になります。身体的に障害が治癒されても、人間は健康体であるとは言えません。存在そのものに歪みを内包していて、身体的にどんなに健康であっても、その人間が健康であるとは言えないからです。もしかしたら、強堅な身体ゆえに、多くの人を苦しめるような人もないとは言えません。果たして、それでも(肉体だけが健康であること)その人は健康と言えるのでしょうか。
  エスにあって、悪霊追放と病気の癒しが、並行して行われているのは、人間が悪霊の支配下から神の支配下に、つまり神の下にある交わりに回復されてはじめて、真の健康を取り戻すからなのです。マルコによる福音書2章35節以下で、イエスが朝早く、人里離れた所で祈っていたところに、弟子たちがイエスの後を追ってきて、「みんなが捜しています」と言いました。その「みんな」とは、イエスから悪霊を追い出し、病気を癒してもらいたいと願って、イエスのところに押し寄せてきた人たちでしょう。それに対して、イエスは、「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と言われました。宣教とは、「神の国は近づいた」という神の国の宣教でしょう。イエスは、悪霊の支配を追放し、神の支配の下にすべての人々を迎え入れるのです。
  「われわれがイエスに達しようとするときの必死の思いと希望、そして、イエスがわれわれに達しようとするときの力とあわれみの混じり合ったものを描くマルコの描写」に注目したいと思います。私たちは類としての人間として、一人の病者は私たちの一部であり、私たち自身の類的な身体の痛み・苦しみであることを見失ってはならないと思います。私たちの感性は個人主義的に歪曲されてきているために、他者の病いや痛みを自分自身のものとして感じられなくなっているかも知れません。他者と自分は一つの身体のそれぞれの肢体です。とすれば、病者の存在は私たち自身の痛みであります。私たちは必死の思いと希望をもってイエスに向かい合うのです。その時、イエスは病める者を癒し、悪霊を追放し、神の国の到来を宣べ伝える者として、私たちに向かい合い、迫ってくるのです。そのイエスとの激しい格闘の中に、幼い子供を亡くした女性と共に、身障者の親子と共に、私たちは立つことが許されているのではないでしょうか。そのような私たちに迫り、私たちに向かってきて、私たちに達しようとされるイエスという方が、病める者を癒し、悪霊を追放し、死に打ち勝ち復活された方であるということ。そのイエスが、私たちの現実の只中に立たれ、私たちの前に歩んでいてくださるということこそが、生れつき目の見えない人の人生を神の栄えのあらわれるためと言い切った、あの明るさを私たちが享受しうる根拠ではないでしょうか。