なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信№14

船越通信№14   2011年7月10日
 
  73日の日曜日は、礼拝後皆で10日の就任式の会場づくりをしました。牧師館の屋根裏物置き部屋から椅子を出したり、スリッパを用意したりしました。その後役員会を開き、通常の議題の他には就任式の打ち合わせと8月以降の役員会前半に皆さんにも参加を呼び掛けて、様々なテーマを取り上げて話し合いを重ね今後の船越教会の在り方を模索するために、どんなテーマにするか検討しました。第一主日の礼拝後が役員会ですから、8月から行いますのでどうぞ皆さんも参加ください。ちなみに8月のテーマは「信仰の再活性化はあるのか?」です。「・私たちの現状の信仰は何が問題か?・かつて信仰が活性化していたことがあるのか?・あるならば、それはどのような信仰か?・信仰の活性化とは何か?・信仰の再活性化があるとすれば、それで何をめざすのか?」。第1回はNさんの発題です。役員会が終わったのは1710でした。私と連れ合いが船越教会を出たのは、1830頃でした。
  75日(火)午後6時から教区常置委員会がありました。74()5日(火)と教団常議員会が行われていますが、常置員会での報告では東日本大震災救援対策委員会が今後5年間で10億円の献金を募ることが決まったそうです。常置委員会における教団常議員会報告はそれだけでした。今の常議員会は陪席者には資料も配布しないようです。ますます閉ざされた常議員会になっているようです。教会の活性化にとってこれは逆だと思います。さまざまな意見が飛び交うくらいでないと、どんな組織でも停滞するのではないかと思います。私は、教会とは、少数でも深くイエスの歩まれた道を歩むことではないかと思っています。ですから、数の多さを求める教勢に一喜一憂するつもりはありません。ただもし現在の日本キリスト教団が伝道による教勢拡大を真剣に願うならば、違った考え・意見を持つ者と、対等同等な関係で向かい合うことが必要でしょう。どんな集団でも上からの統制が強くなれば、創造性か失われていくものです。若い東神大出身者はほとんど同じことしか言いません。自分で考え悩み、自分の言葉で話をするという人間としての基本的な個人性が見えないのです。常置委員会の議題の中の「第37回教団総会の結果に対する神奈川教区の今後の対応に関する件」と「教区内教会への未受洗者配餐中止要請に関する件」が「議長声明」にして終了することになりました。議長声明の内容について、常置委員の中からも矛盾があるのではという意見が出ました。特に後者の議案の内容は教区形成基本方針の精神とも矛盾するとしか思えません。常置委員会では私もそのことを一言発言しました。
  78日(木)午前中私は東京地方裁判所に行きました。土肥信雄さんという都の高校で校長をされていた方が、言論の自由を求めて、都教委(東京都教育委員会)を訴えている裁判を傍聴してきました。この裁判については、私の本訴の準備に熱心に関わって下さっているCさんが、参考になるかもしれないと教えてくれました。その日が結審で、土肥さんの最終弁論15分で終わる予定でした。裁判は15分で終わりましたが、裁判所の方からもう一回行うということになりました。土肥さんは大変積極的な方で、支援者も多く傍聴席42席が一杯になり、入れなかった方が10名ほどいました。その一人一人に声をかけ、楽しそうでした。多分自分のやっていることが、自分のためにも他の人のためにもなるという確信をお持ちなのでしょう。報告会では、最高裁までやりぬくとはっきりおっしゃっていました。裁判が終わって、傍聴席を出たところで、紅葉坂教会時代の方とバッタリ出会い、お互いにびっくりし、「なぜここに」と言いあいました。彼は土肥さんの裁判に興味を持って取材しているようでした。私は自分の本訴のこともあるのでと。彼は、私の免職のことも知っていて、「先生のも組織と個人の問題ですよね」と言っていました。
  73日の説教は、マルコ福音書218-22節がテキストでした。断食問答のところです。「古い着物に新しい布切れで継ぎはしない。また、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。どちらも破れてしまうからだ。新しいぶどう酒は、新しい革袋にいれるものだ」という個所です。断食は、イエス時代のユダヤ教では祈りと施しとともに、敬虔な信仰者が行っていた大切な行為です。当時のユダヤ社会では、この断食は民族的な記念日(バビロニア捕囚に関わる日)にユダヤ民族として集団的に行ってもいました。もちろん個人的にも、バプテスマのヨハネの弟子もファリサイ派の人々も行っていました。しかし、イエスの弟子たちは特に断食はしていなかったようです。このことが民衆にとって不思議に思えたのでしょう。人々はイエスのところに来て、「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と質問しました。それに対してイエスは答えてこう言いました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」と。この断食問答で明らかにされているのは、私たちは、断食が象徴する「悲しみ」「苦しみ」「嘆き」が支配する時に生きているのではないということです。すでに断食をしなければならないような古い時は終わっていて、喜びがすべてに支配する新しい時が到来しているのだと、イエスは語っているのです。ヨハネ福音書2章のカナの婚礼の記事に示されていますように、当時のユダヤの婚宴は1週間続いたそうです。古代ですから、イエスの時代の人々は厳しい日々の労働によって、かろうじて生業を得ていたのでしょう。そのような人々にとって婚宴はまさに心からの喜びの時でした。その喜びが支配する時をどのように生きるか。現在の日本の状況、東日本大震災の影響が大きく人々を覆っているこの現実の中で、喜びが支配する時を生きるとは!