なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(13)

マルコ福音書による説教(13)
 マルコによる福音書3:20-30
            
     エスがわれわれの直中に到来するとき、二つの相反する人間の態度が現れてます(20、21節)。片や、群衆です。既に3章の7節以下において示されていましたように、特に3章10節で、「イエスが多くの病人を癒されたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せてたからであった…」と言われていました。古代世界の人間にとりまして、病気や悪霊につかれたということは、人間の力ではどうすることもできない「呪い」を意味しました。呪術や原始的な医術によって治療可能な病気ならば、それほど悩む必要はなかったでしょう。しかし、それらの力では及ばない病気には、死の影がつきまとっていたに違いありません。そのような人は、ちょうど自分の全財産を使って治療に専念しても、結局治らなかった「12年間長血に苦しむ女」のように、精根尽き果て、死と妥協して生きざるを得ませんでした。叫び、求めても、空しくなるだけだとすれば、次第に沈黙し、黙々と呪われた生を生きる以外になかったことでしょう。そのような人の姿には、すべての人を覆う「死」の壁が厳しく現れているように思われます。この壁の外側に立つ人は誰もいません。ただ苦悩と悲惨を身に負うことによって、その覆いの影に常におびやされている人と、つかの間の幸いを享受することによって、意識の中から暗いものを追い出している人との違いに過ぎません。しかし、存在においては、どちらも同じ地平に立っているのであります。
     エスはそのような世界に生きるわれわれの直中に来られました。彼は、病気や死や悪霊を征服することによって、ただ単に、世界内的な治療者として活動されたのではありません。もしそうだとすれば、あの「ナルドの香油」の物語の中で、イエスの葬りの用意のために高価な油をイエスに塗った女の行為を責めた弟子たちに対して、「貧しい人達はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでもよい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。この女はできる限りのことをしたのだ」(マルコ14:7,8)と言われたいイエスの言葉は理解できません。それ故、病気治癒や悪霊追放はやはり「しるし」とみるべきでしょう。そのようなイエスの行為(奇跡)は、特定の人間が医者にも見放されたけれども、イエスによって病気が癒されたという、その人間固有の体験に還元されてはならなりません。むしろ、福音書に出てくるイエスから病気治癒や悪霊追放された者たちは、その癒しによって、イエスという方がどういう方であるか、イエスの業がどんな業であるかを証言しているのです。すべての人を支配している「死」の覆いが、一人の病者の奇跡的な治療によって、汚れた霊につかれた者から悪霊が追放されることによって、破られたのです。イエスの奇跡行為の中には、イエスの十字架と復活の秘義が隠されているのです。死の影に脅えている人間は、そのことを直感して、イエスの下に集まってきたのでしょう。そのためにイエスは「食事をする暇もないほどであった」と言われています。それは、それだけイエスと彼において突入して来る神の支配(神の国)を切実に待望している人間の姿を示すものです。
     そのようなイエスの活動を、傍観者的に見ていた人達は、彼は「気が狂っている」と言い広めました。その噂を「身内の者たち」が聞きつけ、イエスを「取り押さえる」ためにナザレを出てきて、イエスの所に来たと言われていますが、それは、身内のものにとって、しごく当然の行為であったと思われます。彼らの了解を超えるイエスの振る舞いについて、イエスは気が狂ったのではないかと噂しているのに、ただだまっているわけにはいかなかったでしょうから。イエスの母マリヤがたとえイエスのことを「思いめぐらしていた」としても、お前の息子は大分狂っているそうだ、われわれが尊敬している学者(律法学者)やパリサイ人にさからい、汚らわしい罪人たちと平気で食事をするし、病人をいやしたり、悪霊を追い出したりしているそうだ。そして、どうもヘロデや大祭司たち、ロ-マの役人たちも大分イエスのことを警戒しているらしい。そういう噂を聞いて、身内の者が「イエスを取り押さえよう」としたのも、常識的には同情できる行為であります。自分の息子が学生運動に傾斜していき、よくわからないが、人様に迷惑を掛けているようだ、と考えた両親が、その息子の思想とか、そこから出てくる行動を度外視して、肉親としての心情から息子を説得して、強引に家に連れて帰ろうとすることは、あり得ることです。形の上では、イエスの身内たちの行動はそれによく似ていると言えましょう。
     身内の者たちとイエスとの間には、決定的な躓きが存在します。その躓きを自分の側に引き寄せてしまおうとする限り、身内の者たちは、いつまでもイエスと隔たって立つほかはありません。しかし、この躓きを簡単に自分のほうに引き寄せて解消しようとする試みを捨てて、躓きそのものに静かに聞き入るとすれば、イエスご自身と彼の行為そのものが、身内の者たちをさえ全く新しい地平へと導いて行くのであります。
     私達が原始教会の歴史を思い起こす時に、一世紀40年代後半から50年代にかけて、エルサレム教会の中心的な指導者でありました主の兄弟ヤコブという人物に出会います。彼は、イエスの血を分けた兄弟であると言われますが、そのヤコブがどのようにして教会の指導者の立場になったのでありましょうか。資料からは良く分かりませんが、いずれにしろ、生前兄であるイエスを取り押さえよとした者が、後のエルサレム教団の指導者になったということは事実なのであります。歴史的に見ますと、ヤコブは義人の誉れ高い人物であったと言われます。その点で、ユダヤ教の慣習が濃厚なエルサレムにあって、比較的ユダヤ側に抵抗の少ない義人ヤコブエルサレム教会の指導者にかつぎあげられたのかもしれません。また、何と言いましても、教会内にありましては、ヤコブはイエスの兄弟でありますから、その点でも重んじられる要因をヤコブがもっていたとも言えます。ヤコブの福音理解が極めてユダヤ教に近いということも事実であったかもしれません。しかし、パウロらによって乗り超えられなければならなかった偏狭なユダヤ主義的要素を抱え込んでいたとは言え、一世紀中頃のユダヤ人という歴史的限定の中で、ヤコブキリスト者になったということは、注目されてよいでしょう。それは、ヤコブの側からすれば、あの躓きの向こうからの声に自らが開かれたことを意味します。身内の者がイエスを「取り押さえる」という躓きを超えて、彼のようにイエスの弟子となるには、ヤコブの中に何が起きたのでしょうか。 つまり、イエスと私達全ての者との間にある躓きを、私達の側に引き寄せて、世界観的に人間的に躓きを解消させる努力を断念して、躓きを躓きとして考え抜き、その躓きを通して向こう側から語りかける言葉を、全身で受け止めようとするとき、聖霊は私達をイエスの地平へと導いて下さるのでしょう。
     ところで、律法学者たちはどうでしょうか。彼らは「エルサレムから下ってきた」と言われています。彼らには、何がしかの宗教的権威が背後にあることを思わせます。エルサレムは、ユダヤの中心で、ユダヤ教にあっては、ガリラヤに対しても指導的位置を占めていたと言われます。彼らはイエスに対して、「あの男はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったといわれます。彼らも「身内の者たち」同様、イエスに躓くのでありますが、イエスを「ベルゼブル」と言い、「悪霊のかしら」であると言うことによって、イエスを闇の中に葬り去ろうとします。「ベルゼブル」とは、異教の神を示し、「住居の主」とか「汚物の神」とか言われます。ベルゼブルはこの世界の中に明確には指示できないけれども、得たいの知れない恐るべき力であり、それは汚れを我々に振りまくと考えられていたのであります。人間の不幸や悲惨が、そのような力の働きの結果として考えられました。病気も精神障害も、社会的に貧しい人も、罪人たちもみな、そのように考えられていたのであります。律法学者たちは、そのような世界観の中で、昔から言い伝えられ、解釈された律法を正しく守れば、それが功績となって、人間が病気からも、不幸からも守られると信じ、また人にもそのように教えていたのであります。彼らによれば、神はこの世界と人間にどのように関わり給うかというと、神の意志としての律法を通してであるといわれます。生活のすみずみにまで詳細に決められた規則(おきて)を一つ一つ忠実に守れば、神の救済を人間が獲得できる、と彼らは教えていたのであります。自分の兄弟姉妹(隣人)をどんなに軽蔑し、ばか者とののしっても、決められた祭儀(宗教的儀礼)を守ってさえすれば、それで、その人間は清いとされました。今日、法律を犯さなければ、心の中でどんなに人を差別しても、その人が罰せられることはありません。法さえ犯さなければ、正常な市民ということになります。内面がどんなに汚くても、自分本位であっても、外面的な行為が法を破らなければ、……。しかも権力を持たない人間が罰せられ、権力のある人間は、たとえ外面的に法を破っても罰せられないこともあります。権力側の人は法を曲げることもある程度出来るからであります。憲法第9条のように、法は解釈次第というところがあります。律法学者やパリサイ人がバプテスマのヨハネ同様、ヘロデの姦淫を責めたかどうか、はなはだ疑わしいのです。彼らは、力のない民衆が規則を破らないかどうか監視していたのです。彼らの考えによれば、神の意志は律法の規則に現れているが、それを守るのは人間であります。自分の力によって、善行を積み重ね、それを量的に増し加えることによって、人間の方から神へ至る道があるのだと考えました。
     私達はイエス・キリストの招きという自由の中で、私達の信仰者の歩みも、教会形成も正しくなされていくことを知らなければなりません。常に聖書から言葉を聞き、不断に、決して人間化されない神の言葉に耳を傾け続けることが大切です。私たちもまた律法学者・パリサイ人のように、形式的な信仰生活、教会生活を守れば、それでキリスト者であるかのごとき錯覚に陥ることがあります。律法学者・パリサイ人は、イエスにおいて、そのような彼らの理解をはるかに超えて自由に働かれる神に躓いたのであります。受肉の神、インマヌエルの神に躓いたのです。イエスによる病気の治癒と悪霊追放において、40日間のサタンの誘惑に勝利した方、十字架と復活の主が、罪と死に支配されている世界と人間のただ中で、その覆いを突き破っておられる。そこに、イエスの福音があります。「サタンがサタンを追い出す」という内輪の争いではありません。あの得体の知れない、なんとも不気味で恐ろしい闇がイエスの到来によって突き破られたのです。サタンはその力を喪失し、我々から離れていきます。私達は、イエス・キリストにおいてその躓きにおいて働く聖霊の力により、全ての人間存在を覆う壁を突き破って迫る、サタンに勝利し、死に勝利したイエスの地平に共に立つことへと招かれているのではないでしょうか。