なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(21)

船越通信№21   2011年8月28日     
 
  821日(日)礼拝後に、21日から22日にかけて都筑区のあゆみ荘で開催されました障がい者と教会の集いに参加しました。今回が26回目になります。船越教会からは、私の他に4人参加しました。さて、この障かい者と教会の集いは出会いがメインの会です。寿でも青年ゼミでは、必ず「来て、見て、触れて」というキャッチフレーズを掲げていますが、実際に寿に来て、自分の目で見て、寿に住む人々と触れて関わりを持つことから始まるのではないかということです。自分にとって異質な他者とは、他者のことを知るところからその関係が始まります。そのためには、出会いが必要です。異質な他者と出会い、他者を通して自分を捉えなおし、共生をめざすのです。障がいを持つ方々との関係も同じではないでしょうか。
  教団では8月末に東日本大震災緊急シンポジウムなるものを開催します。その主旨は、「東日本大震災原発事故を信仰者としてどう受け止め、何を語るかを、教会、神学、キリスト教教育、キリスト教社会福祉の4つの視点から考えるシンポジウムを日本基督教団の主催によって行い、その内容を出版して日本のキリスト者と社会に、また世界に向けて発信する」というのです。311日に震災が起こって半年もたたないこの時期に、被災者の方々にどう寄り添い、この困難を打開していくのか、被災者の方々と共に歩んでいこうというのではなく、東日本大震災原発事故の神学的な意味を問い、それを発信していくというのです。私は同じキリスト者として、この時期になぜそういう発想で震災後の悲惨な現実とそこで苦闘している人びとのことを捉えようとするのか強い違和感を覚えます。聞くところによると、常議員会では、東日本大震災原発事故が福音伝道の好機であり、衰退している教団の教会を活性化できるのではないかという趣旨の発言も出ているというのです。何ということでしょうか。今の教団主流派の伝道論は、他者が不在のように思われます。他者とは隣人であり、イエスであり神であります。そういう他者の視線が私たちの注がれているということに対して無自覚過ぎます。自分たちの神学(解釈)だけを絶対化して、その神学をもってすべてを解釈できるという思い上がりもはなはだしい姿勢が透けて見えます。
  22()には、教団ジャーナル「風」シンポジウムが午後4時から信濃町教会でありました。こちらのシンポジウムは「風」発刊10年を記念して行われました。シンポジウムの案内には、「本誌は、発刊10年という時期に、この教団の危機を迎えていることと真摯に向き合いたいと考え、同志の方々と共に、教団のこれからを考えるシンポジウムを企画しました」とあります。こちらには私も参加しました。発題の中に「教団と戒規問題」があり、当事者の私も出席しなければと思ったからです。
  23日(火)から24日(水)にかけて船越教会でフェミニスト神学の会がありました。18名の出席者によってヨハネ福音書4章のサマリアの女の物語と8章の姦通の物語をテキストにして、一緒に学び、三つのグループに別れて、スタンツ・ロールプレイを作りました。この会も29回目になりますが、その時々に傑作が生まれ、解放された楽しい会です。
  27日には午後3時から横浜のホテルで、3月の東日本大震災で延期となった結婚式の司式をしました。
  821日の礼拝説教は、マルコ福音書41-20節の種蒔きの物語をテキストにメッセージをとりつぎました。この個所の譬えの解釈の部分は、イエスが語ったというよりも、後の教会の状況が反映されているところで、信仰を持ち続けることの困難さに出会っていた初期の教会の信徒への警告と励ましになっています。本来の譬え部分である38節がイエスが実際に語ったものではないかと言われています。譬えはその言葉の分析と解釈による理解ではなく、聞いた者が直感的に受けとめるものです。イエスも譬えを語っただけで、その譬えはこうだああだと福音書の中にはイエスによって解釈されていますが、実際にはイエスは何も解釈しなかったのではないでしょうか。聞く者にゆだねられていたということでしょう。この譬えから何を聞くのでしょうか。紅葉坂教会時代にお呼びしたH牧師が、この譬えで説教をしました。そのH牧師の説教は鮮烈な印象を私に与えました。その説教を紹介させてもらいます。種は命で、道端や石地や茨の中に落ちた種は、さまざまな障害物によって、その命を伸びやかに生きることができない人びとのことを指しているのではないか。H牧師は、イラクで殺されたKさんの家族が教会のメンバーで、Kさんの死について、Kさんが「あんな所に行くから」という非難が寄せられたとき、「あんな所」というその場所では、人びとが戦火の中で悶え苦しんで生活しているのではないか。それを「あんな所」と言って対象化することに疑問をもたれたのでしょう。そのことが道端や石地や茨に蒔かれた種と重なったのではないでしょうか。本来ならばどんな種も良い地に蒔かれ30倍、60倍、100倍の実りを与えられるべきところ、蒔かれた場所によっては実らないまま枯れてしまう。イエスは、この譬えで、私たちが道端や石地や茨に蒔かれた種も道端や石地や茨を良い地にして、どんな種も30倍、60倍、100倍に実るようにと願っているのではないかと。