なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(14)

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(14)」を掲載します。
 
  黙想と祈りの夕べ
   (通信№ 14 200012発行)
 
 「黙想と祈りの夕べ」を10月から始めて3ヵ月が経ちました。この集いを始めるに当たり役員会の了承を得るときに、私は、やってみて2、3回で終わるかも知れませんと言いました。もちろん私の中には始める以上は2、3年は続けたいという気持ちが強くありました。けれども、始めてみて全くこの種の集いが存在する意味がないということにならないとも限りません。そういう場合には、始めたから無理しても続けるということになりかねませんので、それだけはやめようという思いがありました。実際に始めてみてこの集いの大切さを、始める前よりも強く感じるようになっています。
 さて、前回の「黙想と祈りの夕べ」の「分かち合い」のときに、私は、J姉から教えていただいき、コピ-させてもらいました「こころの友」掲載の御器所教会会員Yさんの「選ぶのではなく、選ばれていたから」という証しの文章を紹介しました。彼女は、私が御器所教会在任の最後の年に、高校3年生で洗礼を受けました。彼女はこのように書いています。
 「私は、いろいろな事情により、ずっと母と二人で暮らしている。そのことで本当に苦しみ、涙を多く流した。『いつか見返してやるんだ』という思いが強かった。自分自身を失っていたのかもしれない。ただ『とにかく人より頑張らなくては』『父がいないから、という理由で差別されたくない』などという思いを、生きる原動力としていたのだ。
 しかし、K学院に入学し、御器所教会と出会って、私は本当の意味での生を与えられたのである。
 そのことに気付いたのは、高校三年生の時であった。
 …ある時私は、はっとした。
 父がいなくても、私は私なのだ。そして、神さまはどんな人でも愛しているのだ。今まで、ただ『見返してやろう』という思いで生きていた自分が恥ずかしくなった。
 そしてK学院に、自分が『選んで』入ったと思っていた傲慢な気持ちが恥ずかしくなった。違ったのだ。神さまが、私を選んでくださり、愛を送り続けてくださっていたのだ。『あなたは、あんたでいいのだよ』と…。 それから高校三年生の三月に、御器所教会で受洗し、新しい生への第一歩を踏み出したのである」と。
 彼女は今、自分が学んだK学院の中学で国語の教師をしています。
 この日の聖書朗読の一つは詩編71編でした。この詩編は特に「神の恵みの御業」をほめたたえる歌です。私はこの詩編71編の朗読と黙想において、神の恵みの御業が人から人へと語り伝えられることの素晴らしさに心動かされていました。Yさんのことも、そのことの一つの証左ではないかと思いました。うれしいことです。
 「分かち合い」では、他にサンタクロ-スの話がありました。町で新聞配達の方がサンタクロ-スの服装で新聞を配達している姿に出会った姉妹は、信徒の友の記事を紹介し、サンタクロ-スの服装をすると、その人の心も子どもたちを喜ばせたいという思いに自然になるものだいうのです。そのように他者を喜ばせたいという思いをもって、私たちが生活することの大切さと、痛みや苦しみを抱えて生きる人にも、その人と共に生きてくれる身近な人の存在がどんなに大きな力となることだろうかと、話されました。
 本当にそうです。お互いに他者への気遣いが自然に出来るようになりたいと思います。