なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(100、復刻版)

 昨日名古屋に行き、名古屋時代の信徒の11年の記念会が、私が牧師をしていた御器所教会が開拓伝道をして独立している赤池教会の会堂でありましたので、私も出席してきました。故人は教会のオルガニストをしていた方でした。故人の連れ合いが、11年の記念会にはパイプオルガンの演奏を入れたいということで、記念礼拝の後Nさんの演奏がありました。遺族家族を含めて30数名の出席者でしたので、演奏会はホームコンサートのようなこじんまりした感じでした。演奏したNさんも故人のことはよく知っている方でしたので、心のこもった良い集まりでした。御器所教会の人も数名きていましたので、旧交を温めることもできました。

 その後、自動車で送ってくださる方があり、ホームに入所している御器所時代のIさんを見舞うことができました。Iさんは元気な頃、私が御器所教会から紅葉坂教会に転任した後も、何度か、その頃住んでいた三重からわざわざ紅葉坂教会の礼拝に来てくれました。大分弱っておられましたが、私のことを分かってくれたようで驚いていました。Iさんからはなかなか言葉が出ませんので、私の方から声をかけてしばらくお話をして祈って別れました。予定では、Iさんは今日(5月5日)見舞うことにしていました。4日はホームの近くのホテルに泊まることにしていましたので、そのままホテルに宿泊し、今朝ホテルを出て鶴巻に帰ってきました。

 今日は、黙想と祈りの夕べ通信(100、復刻版)」を掲載します。


        黙想と祈りの夕べ(通信 110[-5] 2001・11・4)(復刻版)

 教会の10月はいろいろな行事が目白押しでした。21日(日)礼拝後には教会バザーがあり、28日(日)には、聖歌隊が教区音楽祭に参加しました。レーナ・マリアが歌っている主の祈りを、聖歌隊の指揮者Sさんが編曲して、英語で歌うというので、私も音楽祭に行ってきました。礼拝後に教会で歌ったのを聞いた時よりも、教区音楽祭の会場、戸塚の明治学院大学チャペルが広かったのでしょうか、紅葉坂教会の聖歌隊の声が人数の割には小さく聞こえました。数年前に行った時も同じように感じましたので、礼拝後教会で歌った感じをそのまま、明治学院大学チャペルで歌うからでしょうか。諸教会(今年は20教会が参加)の歌を、楽しく聴くことができました。伝統的な聖歌隊の歌があり、黒人霊歌やテゼやアイオナ共同体の新しい歌をうたう教会もありました。小さな子どもを加えた家族的なグループの教会もあったりして、バラエティーに富んでいました。6時少し前に教会に帰り、黙想と祈りの夕べを迎えました。

 さて、この日「分かち合い」では、二人の姉妹の発言がありました。一人の姉妹は、西区の知恵遅れの子どもたちのボランティア講座と教会音楽祭に参加しての感想でした。西区で開かれたボランティア講座は、区の福祉課の方の希望としては、ボランティアグループ立ち上げだったようだが、講座に参加した人が10人位で少なかった。しかもその参加者のほとんどは、自分の子どもも障がいをもっていて、その子が大きくなった母親で、すでに幼児教室や作業所などのボランティアに入っている方だった。他の区の場合には、同じようなボランティア講座を開くと、20人位集まり、その中には若いお母さんも何人かいると言う。西区は人口増がなく、若いお母さんも少ない。今日参加した教区音楽祭には、新しい町に新しく設立された教会の子どもたちを含んだ若い歌声を聴くことができた。それを聴きながら、紅葉坂教会の将来にも世代交代が来るのではないかと思わされた。また、この今の若い教会も、紅葉坂のような年を重ねた教会になって行くのだろうと考えていた。いろいろなタイプの教会がある。西区にある教会として私たちの教会は地域に根差ざすことが必要ではないかと思わされた。それぞれの教会がそれぞれにふさわしく成長していくことを祈って行きたい。

 もう一人の姉妹は、この日一日の歩みを振り返り、忙しい一日だったが、良い日を過ごせて感謝であると言われた。9時前から教会に来て、ろばランチの当番からはじまり、礼拝、そして午後には教区音楽祭にも行くことができた。その音楽祭の聖歌隊の最後の歌を聴いて、その聖歌隊の中に、教会を変わりたいと言っていた姉妹の歌っている姿を見て、うれしかった。また、こうして今日も静かに祈りの時が与えられたことは、今自分の健康が支えられていること共にただただ感謝であると。

 26日(金)に開かれたオリーブの会(年長者の昼食会)では、介護ホームカルデアの家に入所された姉妹が、カルデアの家で友達になったという90歳の姉妹を一緒に連れて来ました。オリーブの会を紹介して、お誘いしたそうです。昼食を共にし、司会者の発案によって、それぞれ好きな讃美歌を挙げて歌い、その後その讃美歌の思い出など話すことになりました。その初めて参加された姉妹は、今までどこでも話したことはないが、とおっしゃって、ご自分は牧師の娘で…と。そしてカルデアの家での生活は約10年になり、現在90歳だが、結婚生活は苦しかったが、今は幸せだと、静かに話されました。

 「見よ、わたしは、すべてのものを新しくする」(『ルターによる日々のみことば』より)

 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。
                         (第二コリント 5:17)

 キリスト者は、新しく造られた者であり、神による新しい被造物であり、世の語りかたや判断法とちがった方法ですべてを語り、考え、判断します。彼は新しい人ですから、すべてのものは彼にとって新しいのです。この地上生活では信仰により、きたるべきのちの世では明らかにその性質を啓示されることにより、知るのです。この世はその古い性質と方法によって死を判断しますから、死は地上におけるもっともおそろしい恐怖のいまとであります。それは生命とあらゆる喜びの終わりを意味します。

 しかし他方キリスト者は、新しい人として非常にちがったむしろ反対の考えを持っています。ですから、試練の時でも勇気と喜びを持っています。彼は貧しくとも、心のうちには大きな宝を持っていることをおぼえております。牢獄にあるときも、強い王侯であります。病める時におどろくほど強く、あざあけられ、ののしられるときに、かぎりないほまれを持っております。同じように彼は今死なねばならないとしても、新しい生命のうちに生きかえるでしょう。簡単に言えば、彼は新しい心と勇気を与えられ、それにより地上のすべてのものを新しくし、それにより地上においてすでに未来の生活の一端を味わいます。やがてみ国にはいる時、すべては彼の目の前に新しくなり、まひるの輝きの中に新しくされるでしょう。今彼は地上において新しい性質により、信仰によってそれを考え思いうかべているのです。
                            (ヴィッテンベルク城における説教)