なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(56)

船越通信癸毅供  。横娃隠嫁5月6日         

・4月29日の日曜日は、何時ものように礼拝後皆さんとお茶を飲んでしばらく懇談してから散会しました。その日は太陽が燦燦と光を注ぎ、初夏を思わせる暖かな日でした。皆さんが帰った後、Nさんが夕方4時過ぎまで庭の雑草抜きや手入れをしていってくださいました。庭の桜の木にはさくらんぼが、まだ赤くなってはいませんが、沢山ついています。もう一人のNさんが、裏の崖の所にぶどう棚を作って、植え替えてくださったぶどうの枝からは若芽が出始めています。冬の間枯れ草と葉を落とした木の枝だけだった裏の崖も、緑色に染まり、小枝には若葉が顔を出して、全体が薄緑に覆われてきています。春から初夏へと移行するこの時期は、草木の生長がめざましく、生命の横溢を感じさせられます。私はこの日、午後6時から紅葉坂教会で行われる「かながわ明日の教団を考える会」に行くための準備を船越教会でしていました。戸締りをして船越教会を出ようとした矢先に電話があり、その対応の時間をとられ、京浜田浦駅を午後5時17分発の電車に乗り遅れ、京浜急行日之出町駅に着いたのが午後6時数分前でした。駅前からタクシーに乗り、紅葉坂教会には午後6時2分過ぎ位に着くことができました。

・かながわ明日の教団を考える会は、今回が第51回でした。2002年秋に開催された第33回(合同後18回)教団総会で沖縄教区提案の「名称変更議案」をはじめ、合同のとらえなおし関連議案がすべて審議未了廃案になり、それ以後沖縄教区が教団との間に距離を置くようになったのですが、かながわ明日の教団を考える会はその直後に神奈川教区の有志の会として立ち上げました。そのとき呼びかけ人の一人に私も名を連ねていて、それ以来事務局を引き受けて現在に至っています。この会の設立の時に、《最低限の確認事項》として以下のように確認しています。
~この「会」に参加する者の最低限の確認事項として、神奈川教区形成基本方針に立って、われわれの宣教の課題としてa)戦責告白の線、b)「合同のとらえなおしと実質化」を推進、c)靖国天皇制情報センター、在日・日韓、性差別問題特別委員会の継承という方向性を共有する。その上で、この「会」の活動としては、a)神奈川教区内有志信徒・教職間のネットワーク(情報その他)、b)教区政治への対応、c)全国的な働きとの繋がり、をめざす。~

・神奈川教区形成基本方針の本文は以下の通りです。

我々は、1941年の日本基督教団の成立、1954年の「教団信仰告白」、1967年の「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」、1969年の日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同等、今日改めて問い直すべき内容を含む課題を負う教団の現実を踏まえ、理解や方法論の対立を伴うその他の諸問題についても、意見を誠実につき合せ、対話を重ね、聖霊の導きを求めつつ、なお一つの地域的共同体としての教区形成を目指すことを基本方針とする。

 我々は既に、この状況の中で時と地域と課題とを共有している。さまざまな理解の相違や対立は存在する。しかし我々は共に集まり、共に祈り、共に語り合い、共に行動することが許されている。我々は対立点を棚上げにしたり、性急に一つの理念・理解・方法論に統一して他を切り捨てないよう努力する。忍耐と関心をもってそれぞれの主張を聞き、謙虚に対話し、自分の立場を相対化できるよう神の助けを求めることによって、合意と一致とを目指すことができると信じる。

 我々は、合同教会としての形成、教会会議、今日の宣教、教会と国家、教会と社会との関わり、差別問題、さらに教区運営・教区財政、地区活動、諸教会の宣教の支援等、教区として取り組むべき諸課題を担い、当面合意して推進し得る必要事項を着実に実施できるようにと願うものである。
               【1994年2月26日第91回教区総会にて制定】

・今回も1)東日本大震災被災者支援について、2)北村免職処分裁判支援について、3)6月教区総会に向けて等について話し合い、具体的な行動の可能性を共に考えました。この会には教職よりも信徒の参加が多く、毎回30名以上になります。私が司会進行役をしていますが、できるだけ情報の共有と自由な話し合いを積み重ねていくようにしています。そして教区政治への対応においては、具体的な行動をみんなで考え実践するようにしています。船越教会からは、私の他に5人かながわ明日の教団を考える会に参加しています。

・3日から6日までリフレッシュ@かながわという、福島の子どもたちと保護者15家族を横浜みなとみらいのホテルに迎えて、保養プログラムが行われました。主催は日本キリスト教団神奈川教区災害救援委員会です。福島の家族との橋渡しは、福島県田村市出身の核問題小委員会のOさんが担って下さいました。このプロジェクトのために実行委員会が作られ、災害救援委員会委員をはじめ社会委員会関係者、核問題小委員会の委員、それに有志ボランティアが加わって準備をし、3日から6日までの受け入れの働きをすべて担ってくださいました。この保養プログラムは、放射能汚染の地域から避難できないでその場所に生活している子どもたちを中心に、一時的ですが放射能の心配のない地域に来て保養していただくことを目的にしています。市民運動の中には現地に行って相談会を開き、避難先、保養先を斡旋しているグループもあります。いろんなルートによって、この運動が広がり継続していくことが求められていると思います。本来なら被曝の危険性のある地域からは、少なくとも子どもたちや妊婦の方たちには国が責任を持って避難場所を確保しなければならないはずです。

・私も上記の保養プログラムの手伝いをする予定でしたが、4日5日と急遽名古屋に行かなければならなくなって、それができませんでした。船越教会からは3人がボランティアとして参加しました。