なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(60、復刻版)

 今日はこれから鶴巻から船越教会に移動します。昨日は午後3人でしたが、鶴巻のマンションで集会をしました。今後毎月第3水曜日の午後にこの集会を続けいくことにしています。集会をした後は、鶴巻温泉駅近くにあります秦野市の施設弘法の里湯という日帰り温泉でゆっくり体を癒して帰っていただくことにしたいと思っています。私が船越教会の牧師として今年4月から働くようになってから、船越教会にもいわば既成教会の牧師や信徒に躓いたキリスト者の方がたまに礼拝に来られることがあります。そのようなキリスト者の方は、自分の信仰を放棄しているわけではありません。むしろキリスト者としてこの現実社会の様々な矛盾や問題を敏感に受け止めて、どう生きていくかを真剣に考えている人が結構多いのです。このような人が教会に行きたくても行けないというのは、既成の教会が護教という形でイエスの福音の自由と解放の響きを失っているからではないでしょうか。

 さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信(60、復刻版)」を掲載します。下記に知るされているF君は、今は結婚して愛知県で働いています。

           黙想と祈りの夕べ (通信 60[-8] 2000・11・19発行)

 11月12日の礼拝に、今戸塚の明治学院大学一年生で、名古屋出身で戸塚の近くに下宿しているF君が、お母さんと一緒に出席しました。お母さんは名古屋から彼の下宿に来ていて、たまたま日曜日になりましたの、二人で礼拝に来られたのです。F君は生まれた時から下半身に障害をもっていて、私が名古屋で牧会していた御器所教会に日曜学校の幼稚科の頃から来るようになりました。それも、御器所教会のメンバ-で幼稚園の教師をしていた姉妹が、自分の勤めていた幼稚園に彼を受け入れ、さらに同じ子どもたちとの交わりが大切だからと、御器所教会の日曜学校に来るように勧めたからです。それ以来F君が中学生の1、2年の頃まで、私は、直接間接に名古屋で彼や彼の家族と交わりの時を与えられました。小学校に入学する時も、中学校に入学するときも、学校の同意を得るためにご両親は積極的に動かれました。私が名古屋から横浜に移って来た後に、F君は高校に入学しました。今回お会いして、お聞きしましたが、高校の選択にも、自宅から公共交通機関で通える所にある高校を選んだということでした。そして、大学はF君自身が東京に行きたいということで、明治学院になったというのです。この夏に運転免許を取り、今は雨などの時は、自動車で学校に通学しているそうです。夏前までは、地下鉄の戸塚駅から大学まで、車椅子で、雨の時はボランティア-と共にタクシ-で行き来していたということです。F君は、これからもいろいろな困難にぶつかることがあると思いますが、その一つ一つを乗り越えて行かれるように、祈り、また、できることはしていきたい思います。

 上記の私の話にに続いて、私の連れ合いは、その日礼拝後二人を案内したみなと未来地区でのことを話しました。ワ-ルドポ-タ-スや臨海公園、クインズビル、横浜美術館などを案内して気づいたことがある。ワ-ルドポ-タ-スは障害を持つ者にも使い易い施設と銘打っているだけあった。この日もF君だけでなく、何人かの車椅子の人に出会ったし、人々の彼らを見る眼も自然で優しく感じらえた。F君が自分の買物をしたいと言うので、彼を一人にして、お母さんと6階の介護用品のフロア-に行った。いろいろな介護用品や、高価だが車椅子など、かなり工夫されているものが多かった。彼女が、F君が車椅子に座っている時間が長いので、褥瘡ができないためにと、自分で工夫して作っているマットも、それ以上に良い物ができていた。ワ-ルドポ-タ-スと比べると、クインズビルやランドマ-ク方面、また教会の建物や教会近辺からみなと未来へ行くところなどは、ハ-ドな面で障害を持つ者にはフリ-とは言えないが、社会全体としては少しづつ変わって来ているという感じがした。けれども、F君が大学を卒業して、仕事をもってこれから生きていくには、まだまだ沢山の困難があると思う。祈っていくとともに、できることはしたいと。

 また、一人の姉妹は、かにた村の深津文雄さんが召されて、自分がかつてかにた村を訪れた時のことと共に、かにた村や深津文雄さんへの想いを語られました。東京でお別れ会が予定されていて、以前深津先生と共にお仕事をされたことのある目の不自由なI先生も私たちの教会員のO姉がヘルパ-をして、そのお別れ会に行かれるそうですが、自分もできたら出たいと思っています。深津先生のいなくなったかにた村の人たちがどんな思いをしているかを想像しますと。
 深津文雄さんは私も尊敬する方の一人でした。