なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(61、復刻版)

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(61、復刻版)」を掲載します。以下に記されています「山谷」(「寿」と言い換えてもよい)に生きる人々やホームレスに対する吉本隆明のことばは、私には大変重要ではないかと思われます。吉本は、山谷の人々を「助けるべき人」「救うべき人」と考えるのではなく、「戦後の日本社会の矛盾を身体ごと引き受けている」人たちと見ているのです。彼ら・彼女らは「家族とか社会とかの厄介な束縛から自由であるということ」、「戦後のわれわれが失ってしまった人間の生活の原型的なものが、いまや彼らの生き方のなかにのみ、見いだせるんじゃないかということ」とにおいて、そこまで吉本が考えているかは分かりませんが、人間としての在るべき姿を体現しているのではないかと。

 また、下記に記されています一人の姉妹からの発言にあります名古屋の2人のガンを患っていた姉妹は、既にお二人とも天上の人になっています。

         黙想と祈りの夕べ(通信 61[-9] 2000・11・26発行)

 11月16日-17日と寿青年ゼミ(私も一委員として関わっています神奈川教区の寿地区センタ-が主催)があり、私も委員として参加しました。その前に友人から薦められて吉本隆明辺見庸の対談をまとめた本を読みました。その本は既に一年半程前に読んだことがありましたが、改めて読み返し、特に辺見庸の山谷体験に触れている部分が、寿の問題と関わりますので、ちょっと紹介したと思います。吉本も辺見も山谷の人たちを「助けるべき人」「救うべき人」とは考えていません。たとえば、吉本はこのように述べています。「いま辺見さんのおっしゃった戦後50年の矛盾を身体ごと引き受けているというところに僕も興味を持つんです。僕は戦後の50年間の日本社会が、当然行き着くべきところへ行き着いているとはどうしても思えないんです。僕がホ-ムレスの人なり山谷の人なりに何を見るかというと、ひとつには家族とか社会とかの厄介な束縛からの自由ということですが、もうひとつは、戦後のわれわれが失ってしまった人間の生活の原型的なものが、いまや彼らの生き方のなかにのみ、見いだせるんじゃないかということなんです。彼らはそういう意味で模範的な生き方をしているのではないかと思います」と。こういう見方は、教会で寿のボランティアをしている人には驚きかも知れません。辺見は、「乱暴な言い方をすれば、こんなくそみたいな世の中だったら、こうやって根腐れした植物のように生きるしかないじゃないかっていうふうに思ってしまうんですね。倒木になるしかねえやって。(そのような山谷の人へのある種のいとおしさを述べ)、まったくの負として、そのように生きているいとおしさですね。じゃあ、負でない世界にどんな意味があるというのか、私は山谷に行く以前は都心で暮らしていましたが、そこには果たして根腐れはないのか。この消費資本主義の中で根腐れがないのかというと、隠蔽しているだけで、地下茎部はもっとひどいかもしれない。少なくとも私は、きんきらきんのビルから出てくるス-ツ姿の男女にいとおしさを感じたことはありません。いま、健全に見せかけているものって、すべていかがわしいと思います」。そしてこう述べるのです。「私は宗教者ではありませんけれど、人間が神に似せて作られたのだとしたら、彼らの方がわれわれより神に近いのではないかとまで考えました。戦後社会の矛盾として額面どおり身体で受け止めてしまっている人間たちに、私は不思議なプラスの要素を見たんです」と。寿に関わっている人の中に、寿の人たちといるとホットすると言う人が多いのですが、その感覚は吉本や辺見の言っていることに近いのかも知れません。

 以上のような私の話に続いて、「分かち合い」では、一人の姉妹が、先週の一週間は病気の親しい友人や知人の見舞いの週であったと、以下のような話をされました。二日間名古屋に行ったが、その主な目的は二人のガンの人と会うことだった。一人は二度の抗癌治療を受けて、三度目は本人が拒否して、ホスピスを選んだ人です。もう一人は、自分と同じ年令の友人で、以前乳癌の手術をし、最近自分で首のところの癌を発見して手術してもらったが、胸にも細かな癌が広がっていて、治療の方法がないという人である。彼女はクリスチャンではないが、淡々と自分の病状を語り、病気を自然に受け入れているようだった。キリスト者として教えが優先しがちな私には彼女から教えられる思いがした。彼女のことを祈っていきたいと。