なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(28)

      マルコ福音書による説教(28)   マルコ7:31-37、
            

・マルコによる福音書7:31以下には、イエスのところに人々に連れられてひとりの人が来たとあります。その人は、「耳が聞こえず舌の回らない人」であります。この人にとって、耳が聞こえず、口がきけないというハンディが生きるためにどんなに大きな負担であったかということは、耳が聞こえ、口がきける者の想像を超えているにちがいありません。

・ハナ・グリ-ンの「手のことば~聾者の一家族の物語~」を読まれた方もあると思いますが、この本を読みますと、耳が聞こえないということが、どういうことなのかということをしみじみと考えさせられます。訳者もそのあとがきの中で、「三重苦のヘレンケラ-が『盲であるのと聾であるのと、どちらかを選べといわれたら」と聞かれて、言下に「盲目の方を」と答えたという逸話がある。かねがね聞き及んではいたが、『言葉のない世界』がいかにわれわれの安易な想像を絶する性質のものかということを訳出しながら痛感させられた」と記しています。

・たとえばこの本の主人公はアベルとジャニスという二人とも聾者の夫婦ですが、この本の中に夫婦の中にある秘密をめぐってこういうことが書かれています。「ジャニスはアベルに秘密がばれはしないかと怖れていた。自己防衛の動物的本能から出発した一つのうそは沈黙の歳月のために重みをましていた。もはや説明することは不可能だったし、ましてゆるされることもなかった。そしてその必要もなかった。″世界″とは″聞こえる世界″のことだ。言葉で表現されないものは存在もしないし意味も持たなかった。例えば自分の受け取った給料袋を毎週夫に手渡す時、アベルは黙ってうなずいたが、彼は妻が適当にいくらかを取りのけてから渡すのを知っていた。しかしそのことが話題になったことはなく、つまりそんな事実は存在せず、したがってそれが夫婦を傷つけることはなかったし、できなかった」と。

・そういう聾者にとって、言葉によって成り立っているこの社会は、どんな風に感じられるのでしょうか。この本の中でも、聞こえない人にとって、「″聞こえる人″はいつだってよそ者だ」とか、「あのえたいの知れない″聞こえる人」という風に言われています。

・今日のマルコによる福音書の物語では、「耳が聞こえす舌の回らない人」がイエスによって、「耳が開き、舌のもつれが解け」て、聞くことも、話すことも出来る人になったことが記されているのであります。この人にとって、「よそ者」であり「得体の知れない人」としか感じられなかった人たちとの障害は、聞こえるようになって取り払われたと言えるでしょう。耳が不自由であるが故にこの人が負っていたハンディがこの人の側において取りのぞかれたのです。

・私たちは、このイエスの奇跡を、ただ耳の不自由な人の側からのみ受け止めるだけではなく、聞こえる人の側においても、これをどう受け止めるのかが問われているのではないでしょうか。

・耳が聞こえるということと、語る者の言葉を正しく聞いているということは、根本的に異なる事柄です。イエスの時代に耳の聞こえる人たちは(パリサイ人、弟子たち)、イエスの語る言葉が聞こえていたにちがいありません。ところが、イエスの言葉は正しく聞いていたかどうかは、はなはだ疑わしいのです。7:14に、「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、『皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい」とあります。その後を見ると、弟子たちでさえ、イエスの言葉を理解していなかった、と言われています。無理解というのは、聞いていないということです。このことは、聞くために耳があっても、聞こうとしない人間が存在するということです。そして、イエスを取り囲む人々の殆どが、そういう人たちであったということを聖書は示しています。イエスの敵対者であるファリサイ人、律法学者をはじめ、ユダヤの指導者、ヘロデ・アンティパス、ロ-マ側の総督、兵士たちは勿論、弟子たち、群衆も、殆どの人たちが聞く耳があっても、イエスの語ることを聞こうとしなかったし、或は、聞こうとしても聞くことが出来なかったのです。ここには、実に深刻な人間の問題が示されているのであります。

・旧約のイザヤ書を見ると、預言者イザヤが神の召命を受けて、預言者として立てられて、その民に語るように命じられた最初の言葉が、イザヤ書6章9節以下に記されています。「主は言われた、『行け、この民に言うがよい。/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。/この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。/目で見ることがなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために」。ここにも、聞いて悟れない人間の現実が示されています。そしてそれは、イザヤ書では神の裁きとして語られているのであります。神の言葉を聞こうとしないイスラエルの民の頑固(かたくな)さの故に、イスラエルの民をその状態に放置させるという神の裁きであります。預言者によって神の言葉が繰り返し語られます。しかし、民はその言葉が耳に入りません。

・聞くという行為は、相手を受け入れることによって成立するものですから、「耳を傾ける」とか「耳をすまして聞く」とか言われるように、語る者へその人の心が向かって、開かれていなければなりません。サムエルのように「主よ、お話ください。僕は聞いております」という姿勢が求められる所以です。そのような姿勢のない民の中では、預言者の語る言葉も空しく響くだけでした。それは、人間と人間の関係においても同じであります。どんなに身近な夫婦や親子の間柄であっても、相互に語る言葉が空を切ることがあります。場合によっては、言葉を語れば語るほど、誤解が誤解を生み、回復不可能な関係へと突き進むこともないとは言えません。人と人のコミニュケイションのためにあるはずの言葉が、返ってコミュニケイションを破る働きをすることにもなるのです。そういう点では、言葉は両刃の剣であります。

・相互に相手から聞き合うという関係の中で、はじめて語る者の言葉が、語られる者によって受け止められます。そして、そのようなお互いに受け止められる言葉によって、お互いのより深い関係を作り出す働きをすることができるのです。そのように考えてみますと、人と人との関わりにおきましても、聞くという姿勢は基本的なものであり、大変大切なことであることに気づきます。しかし、実際の私たちの毎日の生活の中では、聞くというお互いの姿勢がますます失われて行っているように思われます。教育においても、心ある人たちの奮闘にもかかわらず、聞くことのできる人間を育てようとしているかというと、どうもそうではありません。知識がつめこまれたロボットのような人間をつくり、機械の部品のように社会に送り出されて行きます。耳があっても、その耳を使って聞くことのできない人間が作られているから、聞いて欲しい悩みをかかえて、交わりを求めている人間は切り捨てられていきます。ちょうど戯画的に私たちを描くとすれば、頭脳だけ極端に大きくて、耳と口が極端に小さい顔をした人間ということになるのではないでしょうか。聞くことのできない人間は、語ることも出来ないからです。そのようにして、言葉を失ってしまうところまで、私たちはころがって行こうとしているのではないでしょうか。

・神の言葉を聞こうとしないイスラエルの民の頑固さと、人間が相互に言葉を失って、物の様になっていくこととの間には、深い内的関係があるように思います。人間が人間となって行くのは、聞くことと語ることによってであることは、生まれたばかりの乳児とのその母親との関係を考えれば、よくわかることです。赤ちゃんは言葉を知りません。しかし欲求はあります。母は言葉にならない赤ちゃんのコトバを一生懸命聞いて、それに応えます。そのことによって赤ちゃんは語ることを知って行くのです。社会的習慣としての言葉は、後から教えられますが、それ以前に聞き、語るという人格的関係が結ばれていなければならないのです。つまり、聞くことと語ることは、交わりから与えられるものです。聖書の神は交わりの神です。人間が神の被造物として、その似姿に造られたという創世記の人間創造物語は、神が人間をその交わりの相手として創造されたということを語っています。交わりの神は、男アダムを造ったが、「人は一人でいるのは良くない。彼のためにふさわしい助け手を造ろう」と言って、獣や鳥を造ってアダムに与えます。しかし、アダムにふさわしい助け手が見つからなかったので、アダムを深く眠らせ、彼のあばら骨から女をつくって与えます。神の被造物として、神の交わりの相手としてつくられたのです。ところが人間は神の言葉を聞かないで、「食べてはならないと命じられた」木の実を、蛇の誘惑によって食べてしまいます。しかも、そのことを問いつめられると、男は女が食べなさいと言ったから、食べたと責任転嫁し、素直に違反をわびようとしない頑固な者になるのです。そのようにして交わりは破られてしまいます。そこから、彼らの息子たちが兄弟殺しをするようになります。兄カインは弟アベルを殺してしまうのです。

・この創世記の最初の物語には深い洞察が秘められています。神と人間との関係が、色濃く人間と人間との関係を規定しているということが示されているのです。人間が神の言葉を聞かなくて、ひとりで歩み出すことによって、助け手としての他者は、その人間の欲望の対象になっていきます。イエスは、そのような既に聞くことのできなくなっている人間世界の中にこられました。そこでは互いが孤立し、分断しています。権力を持つ者が悪魔的な力によって、ほしいままに、他の人間から収奪している世界です。

・耳があっても聞こえない、口があっても語ることができない人間が再生産されていくような世界の中で、イエスは「耳が聞こえず、口がきけない人」を癒すのである。イエスがこの人の心の叫びを徹底的に聴くことによって、この人を癒したのです。その意味で、この耳の不自由な人の癒しの記事は、私たちへの大きな問いかけでもあると言えるのではないでしょうか。

・この物語は、ただ聾者が癒されて、聞こえる人の世界の人になったというのではなく、聞こえる人と聾者を隔てていた壁が取り払われたことを意味するのではないでしょうか。聞こえる人が聾者と同じ立場に立って共に生きるそういう世界の到来です。