なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(37)

 以下船越通信37の最後の先週の説教要約は24日のブログに掲載のマルコ福音書による説教をご覧ください。   

         船越通信癸械掘  。横娃隠映12月25日    

・12月18日の日曜日は礼拝後に教会としての集会はありませんでした。ただ午後5時から紅葉坂教会で私の裁判支援会の事務局会を予定していましたので、しばらく教会で仕事をしてからそちらに向かいました。事務局会では、,泙今隠卸遑各釮虜枷住抉臠足集会の感想をお互いに述べ合いました。主な発言は、・弁護士の話が好評であった。私の戒規免職問題は、北村一人の問題ではなく、教団の問題、そして教団に所属する一人一人の問題であることがわかった。・呼びかけ文(「全国の心ある皆様へ」)の「心ある」という言葉にひっかかりを感じたという、声があった。「心ある」というと、「心のない」と二項対立的なニュアンスになり、「心のない」人を一段下に見ているように受け取られるので、好ましくないという意見ではないかと思います。・12月3日の集会の後、階下ホールでお茶の会をもったが、その企画がよかった。・北海道から九州までの方が参加してくださって感激であった。 ・世話人代表として挨拶された関田先生の言葉を文章化してほしい。などの感想意見が述べられました。∈枷修賄?虱縦蠅茲蠑し遅れる見込みとの報告がありました。2餬彜萄困鬘果樵任しました。ぢ茖厩羃駟鵑鯊茖渦鷂?修瞭錂?帽腓錣擦独行することにしました。以上が12月18日の事務局会で話し合った内容です。お陰さまで裁判支援の呼びかけに応えて、今のところ順調に正会員、賛助会員、献金・カンパが集まっています。多くの方が支援して下さることは、私自身にとっても心強い限りです。なお、12月3日の発足集会の記事が12月25日発行のキリスト新聞に載りました。発足集会前に私の方でキリスト新聞編集者に取材を依頼したところ、発足集会に編集記者が取材をしてくれました。記事を読んで、比較的コンパクトによくまとまっているという印象を受けました。

・12月20日(火)シャワーの会(路上生活者のパトロール)があり、鶴巻を朝7時前に出て京急久里浜駅に向かいました。午前9時ごろ京急久里浜駅で、SさんとKさんと合流しました。Sさんが運転する車で、いろいろ公園を回り、その公園に路上生活者がいるかどうかを見て回るのです。路上生活者を発見すると、Hさんが作って下さったおにぎりに、カイロなどを持っていき、近況や健康状態を確かめて、必要な方にはそれを差し上げます。横須賀中央や汐入では、公園だけでなく、歩道にも目を配り、路上生活者のパトロールをしています。これから年末年始にかけて、路上生活者には厳しい時期がやってきますが、何とか冬を乗り越えて暖かな春を迎えてもらいたいと思います。今回は出会えた方は少人数でした。パトロールを終えてから、船越教会に寄り、必要な荷物をもって、鶴巻に向かいました。鶴巻に着いたのは午後4時を過ぎていました。

・22日の木曜日、鶴巻をお昼ごろ出て、船越教会には午後3時前に着きました。東日本大震災の被災教区である奥羽と東北教区を除き、クリスマスまでに私の裁判支援のお願いを、全国の教会・伝道所に私の裁判のことを知ってもらいたいということもあって、出したいと思っていましたが、やっと22日にメール便で最後の分を出しました。今後は支援して下さる個人宛に出していきたいと思っています。どれだけの方が支援して下さるかは分かりませんが、出来る限り多くの方に私の裁判を知って頂き、洗礼を受けていない人への配餐を理由とする私に対する教団の戒規免職処分がいかに不当であるかを認識してもらいたいと思っています。

・24日(土)は午後6時30分からキャンドルサーヴィスが行われました。私にとって船越教会でのキャンドルサーヴィスは初めてです。本年3月まで牧師をしていた紅葉坂教会では、キャンドルサーヴィスは聖歌隊と会衆がほぼ交互に讃美歌を歌います。聖歌隊の歌っているとき会衆はそれを聞くだけです。説教も紅葉坂教会では10分と制限されていました。日曜学校の合唱もあります。聖書もマタイとルカのイエス誕生物語を讃美歌と讃美歌の間で読みます。会衆も160~170人位はいます。ということで、船越教会とは大分違いますので、船越教会のキャンドルサーヴィスのイメージがなかなか描けませんでした。基本的に礼拝はそう変わりがないだろうと思っていましたが、祝会となると、キャンドルサーヴィスが終ってからの祝会は礼拝以上にイメージが描けませんでした。事実祝会での盛りだくさんの御馳走には驚いてしまいました。ワインとシャンパンにもびっくりして、気分をよくしていただいたせいか、私一人真っ赤な顔になってしまいました。幸い小さな子どもたちも5人参加し、総勢35人の出席者に恵まれました。3月11日に起きた東日本大震災と東電福島第一原発事故による多くの方々の死と被災者の困難を思うと、今年のクリスマスは例年と違い重く感じられますが、その重さの中でイエス誕生の意義を捉え返したいと思います。

・12月18日の礼拝説教はマルコによる福音書7章31-37節からメッセージを取り次ぎました。耳が聞こえず、口がきけないというハンディがその人にとってどんなに大きな負担であるかは、耳が聞こえ口がきける人には想像を絶するでしょう。三重苦のヘレンケラーが「盲であることと聾であるのと、どちらを選べと言われたら」と聞かれて、言下に「盲目の方を」と答えたという逸話があるそうです。そのような耳が聞こえず、口がきけない人の耳を開き、口をきけるようにしたこのイエスの物語から私たちは何を聞きとることができるでしょうか。この人にとっては、聞こえるようになったことは、コミュニケーションの回復を意味しました。このイエスの癒しは、イエスの奇蹟的な行為にまさって、イエスがこの人の魂の叫びに徹底的に耳を傾けたことによるものではないでしょうか。耳が聞こえる人でも他者の語る言葉が耳に入らない人もいます。聞くという行為は、相手を受け入れることによって成り立つものですから。イエスは他者の苦しみ痛みに共感し、徹底的に他者に自らを開いて聞く人でした。そのイエスによって聞こえない人と聞こえる人との隔てが砕かれ、響き合う関係へと私たちが導かれているのです。