なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

わたしがあなたと共にいる(エレミヤ書1)

   「わたしがあなたと共にいる」エレミヤ1:1-10、2015年3月8日(日)礼拝説教

・今日からエレミヤ書から御言葉を聞いていきたいと思います。エレミヤ書を取り上げましたのは、この時

代の空気と関係しています。4年前に起こった東日本大震災・東電福島第一原発事故を契機に、その後民主党

政権から自民党政権に戻り、特に第二次安倍政権からは平和憲法の枠組みをどんどん外して、戦争のできる

国造りに邁進しています。一部の反対勢力は健在ですが、全体として安倍政権の暴走を食い止めるほどでは

ありません。ですから、この国は大変危険な状況にあると思われます。

・紀元前7世紀後半から6世紀前半にかけて活躍した預言者エレミヤは、アッシリヤによる北イスラエルの滅

亡と南ユダの圧迫、南ユダの滅亡とバビロニア捕囚という古代ユダヤの危機的状況を預言者として生きて言

葉を発し続けた人物です。このエレミヤの預言と彼の生き様を通して、現在の私たちに語られているメッセ

ージを聞くことができればと願っています。

・さて、エレミヤ書1章1節の最初の言葉は、「エレミヤの言葉」です。これは表題ですが、この「言葉」と

訳されているヘブル語は「ダーバール」です。これは「神の言葉」を意味し、語られた神の言葉は、ただ語

られっぱなしに終わるのではなく、私達の中で実現すると考えられていました。ですから、「エレミヤの言

葉」とは、その後に記されています時代に、エレミヤに臨んだ「主の言葉」を意味します。単にエレミヤの

言葉というのではなく、エレミヤに臨んだ主の言葉なのです。

・一節の以下に続く言葉は、エレミヤを紹介しています。「神の言葉は、具体的な人物を通して、具体的な

歴史的状況に語りかけられます。抽象的・客観的真理ではなく、具体的な指示、命令、警告、また勧告であ

り慰めの言葉であります。それを聞く者に、主体的応答を求める言葉です。その言葉に対する正しい理解が

求められますが、ただ理解だけではなく、決断と行動が求められます。エレミヤが神の言葉を語れば、その

言葉を聞く者との間に何らかの出来事が起こってこざるを得ません。預言者は、語った言葉によってひき起

こされる出来事にも責任を負わざるを得ないのです。そのような言葉を、エレミヤは40年以上にわたって語

り続けたのです。

・「主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、

更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代に臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わ

り、すなわち、その時の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた」(2-3節)と語られています。

これによれば、エレミヤの活動は、紀元前627年から587年ということのなり、ちょうど40年です。しかし、

バビロン捕囚後もエレミヤはエルサレムに残って、バビロンがユダの総督として立てたゲダルヤのときに

も及んでいますので、その時期をいれますと、42年くらいと考えられます。

・約42年間、ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚という激動の時代に彼に臨んだ神の言葉を語り続けた預言者

レミヤのことを考えますと、身が引き締まる思いにさせられます。ユダ王国の滅亡という、国家というアイ

デンティティーを失ってしまう人々に、またバビロン捕囚によって、民族としてのアイデンティティーの危

機に瀕している人々に対して、神の言葉によってどのような道を示すことができるのか、「主の言葉」が臨

んだ預言者エレミヤの課題と責任の重大さを思わずにはおれません。この点に関して、木田献一さんは、次

のように記しています。「エレミヤはユダヤ民族に、民族国家から教団民族として生きる道を指示し、更に

宗教の問題を民族の次元から、個人の次元へと深く掘り下げ、民族宗教としてのユダヤ教から、普遍的宗教

としてのキリスト教へと向かう道を指し示すことができた」と。

・ここで木田献一さんが「普遍的宗教としてキリスト教」と言っているのは、国家や民族を超えて一人一人

の人間が共に生きることが出来る道としてのキリスト教という意味合いではないかと思います。更に言えば、

それは、キリスト教という宗教をさえ超えたイエスの切り開いた道と言えるのではないかと思います。その

からしますと、現在の安倍政権は強い日本という民族国家の再建をめざしていると思われます。その道は、

民族や国家を超えた、どの国やどの民族に属していても、その枠組みを超えて、一人一人の人間が共に生き

ることのできるイエスの示した道から言えば、反動以外の何物でもありません。

・そのような展望をもって、エレミヤ書から御言葉を聞いていきたいと思います。
・ さて、エレミヤは預言者としての召命を受けた時、その神の召命を躊躇せずに受け入れたわけでは

ありません。4節から6節にこのように記されています。<主の言葉がわたしに臨んだ。/「わたしはあなた

を母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。/母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸

国民の預言者として立てた。」/わたしは言った。/「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りま

せん。/わたしは若者にすぎませんから。」>。

・エレミヤにとって神の言葉は圧倒的な力をもって臨みました。神はエレミヤを母の胎内に造る前から知り、

母の胎から生まれ出る以前から聖別したと言うのです。しかも「諸国民の預言者」として立てたと言うので

す。この神の言葉をエレミヤは拒否して、わたしは語る言葉を知らず、若者に過ぎないと言います。ここで

エレミヤは自分のことを若者と言っていますが、実際に何歳くらいだったのでしょうか。注解者は、成人す

るのが早い古代の社会では、20歳未満の青年と見るのが適当だろうと言っています。そのような若者に向か

って、激動する諸国民の世界の中で、諸国民の将来を予見しながら、自国の運命を担えと言うのです。その

課題の前に、ひるみ、たじろぐのは当然ではないでしょうか。

・かつて、同胞を助けようとして挫折したモーセも、神の召命を拒否しました。しかし、モーセを励まして、

その使命に向かわせたのは、「わたしは必ずあなたと共にいる」という約束でした(出3:12)。エレミヤを

励まして、使命に向かわせた言葉も、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」(8節)という言葉です。

エレミヤは、神の約束の言葉に励まされて、「わたしは語る言葉も知らず、若者に過ぎない」と言って、神

の召命を拒絶した自らの決断を覆し、諸国民の預言者として立って行くことになります。9節、10節には、象

徴行為が伴う預言者としての任命が記されています。

・<主は手を伸ばし、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。/「見よ、わたしはあなたの口に/わた

しの言葉を授ける。/見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。/抜き、壊し、滅

ぼし、破壊し、/あるいは建て、植えるために。」>

・この神の主導に、神の召命を一度は若者に過ぎないと拒否したエレミヤは自らを委ねて、預言者として生

きていくことになります。そのエレミヤにおいて決定的だったのは、「わたしがあなたと共にいて、必ず救

う」という神の約束の言葉でありました。このエレミヤに与えられた神の約束の言葉は、イエスの誕生の秘

密である「インマヌエル」(神我らと共にいまし給う)にも通じるように思えます。

・イエスは幼子のように、生涯共にい給う、御自分の命を与えて下さった方、「父なる母なる神」との関係

を第一にして生き抜かれた方だと思います。マルコによる福音書の著者が、「神の子イエス・キリストの福

音の初め」という書き出しで、福書を書いたのは、神の子である人間イエス・キリストの福音、その喜ばし

いおとずれを書こうとしたからです。イエスは、アバ父よと祈り、一生懸命神の言葉を聖書(旧約聖書)か

ら聞き、体を動かして働いたのでしょう。人間が造り出した宗教としてのユダヤ教による社会秩序の下で、

また、ローマ帝国という、これも人間の造り出した権力による世界支配の秩序の下で、その秩序に組するこ

となく、互いに愛し合い、仕え合うことによって神の愛を体現する神の国の住民としてこの世を生きる人間

仲間の一人として、イエスは生き、言葉を発したのではないでしょうか。何よりもインマヌエル、神我らと

共にを信じてです。

・後のローマ帝国によって国教化された以後のキリスト教のように、世界支配を求めることなく、イエスは、

世の片隅で黙々とインマヌエルの世界を生きたのではないでしょうか。そのようなイエスの生き様をユダヤ

の支配層もローマの総督も、自らの支配の邪魔者として結局は抹殺しようとして、イエスの十字架に架けて

殺したのです。ところが、それで終わりませんでした。復活したイエスと出会ったという弟子たちをはじめ

とする、イエスの復活を信じる人々が、生前のイエスが歩まれた道を踏みしめて生きていったのです。新し

いインマヌエルを生きる人々が、イエスの十字架と復活を通して呼び起こされたのです。それが教会ではな

いでしょうか。教会も、神我らと共によって歩む人間の群れです。

預言者エレミヤは、紀元前7世紀後半から6世紀前半にかけて、預言者として彼に臨んだ神の言葉を人々に

語り続けた人物です。そして彼もまた「わたしがあなたと共にいて、必ず救う」という神の約束を信頼して、

預言者としての働きを約40年にわたって全うしたのです。当時の世界帝国の支配権力に翻弄されながら歩む

イスラエルの民の一員として、何よりも彼ら彼女らに「神の民」としての自覚を呼び起こし、エレミヤはそ

の預言活動を通して、木田献一さんによれば、<「神の民」としてのイスラエル民族は、たとえ政治的な破

滅を経験するとしても、神の意志としての律法を実行することによって、地上の政治的権力によって支配さ

れる集団ではなく、天上の神の支配の下に生きる集団として再生し、地上に神の支配の現実を具体的に示す

ことを使命として生きる集団を形成しうるという意識が次第に確固として成立するようになった」と言われ

ています。

・このエレミヤが語り、めざした「主の言葉」の方向性を見失うことなく、今ここに、立ち続けていきたい

と願います。