なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(56)

「待望と成就」マタイ11:2-6 2019年11月10日(日)礼拝説教

 

  • 先週の永眠者記念礼拝の説教では、一軒の家の譬えをお話ししました。その家は、既に朝の光に包まれていますが、窓には厚いカーテンが下りているために、その家の中はまだ闇の中にあるという譬えです。今日も同じような譬えから始めたいと思います。
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  • みなさんの中には、真っ暗なところに朝太陽が昇る日の出の様子を見たことがある方も多いと思います。

 

  • 私は以前名古屋にいたときに、お正月の朝、初日の出を、教会の近くにありました八幡山という古墳の上で見ました。

 

  • 名古屋の町は、横浜のように高いところと低いところが殆どなく、平らでした。ですから、そんなに高くない八幡山の古墳の上から名古屋の町を見渡しますと、一部だけ大学の建物で見えない方向がありましたが、ほとんどパノラマのように見えました。

 

  • 最初その八幡山の古墳の上に登ったときには、周りには近くに街灯がありませんでしたので、真っ暗でした。何人もの人がすでにそこにいて初日の出を待っていました。名古屋の町の真ん中ですから、その八幡山から見渡す名古屋の街には、あちらこちらに電気の光はありましたが、家やビルの建物は暗闇の中に隠れていて、その形は全くわかりませんでした。

 

  • 東の遠くの山の上から太陽が顔を出す少し前頃から、その山の上の空が段々と明るくなり、輝く太陽が山の上から出てくると、暗くて何も分からなかった町の様子がはっきりと見えるようになりました。ビルや家、道路に自動車が走っている様子もはっきりと分かりました。

 

  • その時、太陽が出る前と後では、目に見える名古屋の町の風景が全く違うということを知りました。太陽が出る前は暗闇に町のすべてが包まれて、黒一色のような死んだ名古屋の町でした。ところが、太陽が出て明るくなると、いろいろな家やビルや道路や公園や川なども見えて、町全体が生き生きと感じられました。

 

  • 太陽が出る前と後では、世界が全く違うように感じられました。出る前は闇の世界、すべてが死んだような世界でした。しかし太陽が出てからは明るい、生き生きした世界に見えました。

 

  • エスによって、神は、この世と私たちすべてに、暗い闇の世界から光の輝く世界へと導いて下さっているのではないでしょうか。

 

  • エスは、バプテスマのヨハネガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに捕まって牢屋に入れられたと聞くと、人々の前に現れて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)と言って、宣べ伝え始めました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」というのは、天の国、つまり神の支配する国が来たから、今までとは180度方向転換して、神の御心にふさわしく歩みましょうということです。

 

  • それはちょうど夜から朝に変わることによって、世界が新しくなるのと同じです。新しい世界、新しい時代がイエスとともに私たちのところにやってきたということです。

 

  • 実際イエスによって、病気を癒された人たちやその家族、悪霊を追い出してもらった人たちやその家族、人々から嫌われて人間扱いされず差別されていたのに、かけがえのない一人の人間としてイエスに受け入れられた人たち、また強い人たちが自分勝手に振舞い、弱い人たちが犠牲になって苦しんでいる社会に疑問を感じていた人たちには、イエス神の国を本当に実現する救い主に思えたことでしょう。

 

  • バプテスマのヨハネは牢屋の中にいました。それこそ権力者であるヘロデ・アンティパスの不正な離婚を非難したためにつかまって牢屋にいれられていたヨハネですが、ヨハネは天の国(神の国)が来ることを待ち望んでいました。そして天の国(神の国)はメシヤ(救い主)という一人の人物を通してやってくると信じていました。ですから、牢屋にいて自分の弟子たちからイエスの噂を聞いたのでしょう。イエスがメシヤ(救い主)かもしれないと思って、弟子たちをイエスのところに送って質問させたのです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(11:3)と。

 

  • するとイエスは答えて言いました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしに躓かない人は幸いである」(11:4-6)と。

 

  • このイエスの言葉は、イザヤ書35章の預言が実現していることを物語っています。 
  • 「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。/花を咲かせ/大いに喜んで、声を上げよ。/砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。/人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。」(35:1-2)と言って、イザヤは次のように続けます。
  • 「弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。/心おののく人々に言え。/「雄雄しくあれ、恐れるな。/見よ、あなたたちの神を。/敵を打ち、悪に報いる神が来られる。/神は来て、あなたたちを救われる。」(35:3-4)。
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  • そして「そのとき、見えない人の目は開き/聞こえない人の耳が開く。/そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。/口の利けなかった人が喜び歌う。/・・・・」と(35:5-6)。

 

  • 今も私たちの周りには、苦しんでいる人、悲しんでいる人、泣き叫んでいる人が沢山います。日本だけではなく、世界中にそのような人たちが沢山います。自分だけ幸せなら、人のことはどうでもいいという人もいます。そういう人が沢山いる社会では、苦しみ悲しむ人たちは、自分たちだけが何故こんなに苦しまなければならないのかと、つらい思いをかかえて、ひそかに生きていかなければなりません。

 

  • エスの時代のユダヤの国と同じです。ユダヤの国でも目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人、貧しい人は、そういうつらい思いをかかえて、ひそかに生きていかなければなりませんでした。

 

  • ところが、イエスは、イザヤの預言のように、そのような人々に神の不思議な命を分かち与え、喜びと希望をもたらしました。打ちひしがれていた人たちが、元気になって、自分の足で立って歩きだしたのです。暗い夜の闇のような世界から、太陽の光がさんさんと輝く真昼の世界に人々は導かれて、元気を取り戻し、神を讃美して生きていくのです。

 

  • 最近国会で前回の参議院選挙で当選した重度身体障がい者の木村英子さんと船後晴彦さんがそれぞれ委員会で質問をしたことが報じられました。このお二人は、皆さんご存じのように、山本太郎が率いる令和新撰組から参議院選に出て当選した方々です。

 

 

  • このキリスト者の方は、自分の信じるイエスの福音に照らして、山本太郎の主張に共感するところが多かったので、その選択をしたのだと思います。その結果、重度身体障がい者のお二人が参議院議員になって、国会のそれぞれの属する委員会で質問者となっているのです。

 

  • このことは、木村英子さんと船後晴彦さんのお二人と障がいを抱えながら生きている方々にとっては、特に大変大きなことではないでしょうか。障がいを抱えながら生きている方々は、差別されて社会のわきに追いやられ、他の人々と共にその社会を構成するメンバーとして対等・同等な扱いを受けられないことが多かったに違いないからです。それが障がいを抱えて生きる方々の代表として、同じ障がいを抱えて生きているお二人が国会議員として法律を作る国会の場で発言し投票できるようになったわけですから。

 

  • 獄中にあるバプテスマのヨハネから遣わされたヨハネの弟子の問い、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」に答えて語られたイエスの言葉をもう一度思い起こしたいと思います。

 

  • ≪「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人々は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」≫。

 

  • このイエスの不思議な出来事が、今も苦しむ者、悲しむ者と共に在る私たちの中で起きているとするならば、重度身体障がい者の船後晴彦さんと木村英子さんが参議院議員として国会活動に参加しているということも、その一つの現れではないでしょうか。

 

  • 暗闇が支配する死の世界の中に光である命が突入してくるという出来事こそ、イエスの福音です。私たちはそのイエスの福音を信じて生きていきたいと願っている者たちです。

 

  • モルトマンは『希望の神学』の中でこのように述べています。「われわれには永遠の生命が約束されている。・・・しかしわれわれ死人に対してである。われわれには祝福された復活が宣べ伝えられている。・・・それでもわれわれは腐朽に取り巻かれている。われわれは言い表せない至福について聞いている。・・・しかしなおわれわれは、ここにおいては無限の悲惨に圧迫されている。われわれには、飢えと渇きだけが満ちている。もしわれわれが希望に支えられていなかったならば、そしてわれわれの心が、神の言葉と霊によって照らされた道にそって暗黒を突き破り、この世界をこえて急ぎゆくのでなければ、われわれは一体どうなるのであろうか!」(ヘブル11:1講解)。

 

  • 私たちは、ますます暗黒の闇が深まっているかに思えるこの社会の現実に生きている者ですが、イエスによってこの暗闇の世界の中にも差し込んでいる光を見失わずに、光をめざして歩み続けたいと思います。