なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(14)

        使徒言行録による説教(14)使徒言行録4:13-22
                      
ヘブライ人への手紙11章の1節に、有名な「信仰」についての言葉があります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することです」という言葉です。ここで「望んでいる事柄」とは、もちろん、それぞれが自分勝手に望んでいる事柄ということではありません。「まだ見ていない事実」も、それぞれが勝手に考えている「まだ見ていない事実」ということではありません。ヘブライ人の手紙の著者にとりましては、「望んでいる事柄」と「まだ見ていない事実」とは、イエスを信じる者の未来への希望です。この手紙の著者は、自分が望んでいるイエスにある未来がどんなに厳しい現実の生活によって覆われていても、確かなことであると信じて疑わないのであります。ですから、このヘブライ人への手紙の著者は、その信仰によって、厳しい現実の前に生きる勇気を失しなって投げやりな生活に陥ることもなく、自分のなすべきことをなしつつ、前進していくことができました。

・この信仰をもって生き抜いた旧約聖書の人物を、ヘブライ人の手紙の著者は例に出していますが、その中のアブラハムについての記事を紹介したいと思います。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになっている土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサクとヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」(ヘブライ11:8-10)。

ヘブライ人の手紙の著者にとっては、神によってこの世に遣わされたイエスにある希望が真理そのものでした。アブラハムにとっては、彼に与えられた神の約束が真理そのものだったのでしょう。彼らはその真理にどんなに覆いがかけられていて、それを信じていない人にとっては見えなくとも、その真理への確かさを失うことはありませんでした。
そして、その真理への確信を与えられた彼らには、その真理にどんな覆いをかけようとする人がいても、その偽りを見抜くことができました。神の確かさへの信頼を与えられた者は、この世の現実の中で、大地にしっかりと根を張った樹木のように暴風に襲われても倒れることもなく、自分を失わずに希望を持って生きることができるのです。

・さて、今日私たちに与えられた使徒言行録の4章13節以下の記事におけるペトロとヨハネの二人も、ヘブライ人の手紙の著者が語っている信頼としての信仰によって、ユダヤ人の最高法院という議会による尋問を受けながら、堂々として揺らぐことなく受け答えをしているのであります。彼らもまた、覆いが取り払われたイエスにある真理への確信によって、最高法院の議員たちによる尋問という厳しい現実と向き合っているのです。その堂々とした二人の態度を見て、彼らを問い詰めている最高法院の議員たちが、逆に何の権威によってこの二人を問いかけているのかと、二人から彼らが問われていることが、この使徒言行録の個所から伝わってきます。

・13節、14節を田川訳によって読んでみたいと思います。「彼らはペテロとヨハネが堂々としていることを見て、またこの者たちが文字を知らず、無学であることに気づいて、驚いた。またこの二人がイエスとともに居た者であることも知った。また癒された人物が彼らと一緒に立っているのを見て、もはや何も言えなかった」。二人を取り調べている最高法院の議員たちが、イエスの真理に裏付けられた堂々とした二人の態度を見て戸惑い、驚き、もはや何も言えなくなったというのです。

・ここには、この二人が「文字を知らず、無学であることに気づいて」(新共同訳「二人が無学で普通の人であることを知って」)と言われています。ペテロもヨハネガリラヤ出身の漁師でした。ペテロは弟アンデレと、ヨハネは兄ヤコブと共に、ガリラヤ湖の魚を獲って生活の糧にしていた漁師の家の者で、イエスに出会って、イエスから「わたしに従って来なさい」と言われて、イエスに従った人物です。おそらく当時のユダヤの国では、文字を学んで文書を読むという教育を受けられた人は少数のエリートで、ほとんどの人は文字を知らず、聞いて学んでいたと思われます。漁師出身のペテロとヨハネも、当時のユダヤ社会の中では少数のエリートに属する人物だったのではなく、ごく平凡な市井の人の一人であったということでしょう。二人はイエスに出会い、イエスから招かれて弟子とてイエスと活動を共にし、イエスの十字架に躓き、一度はイエスを捨てて逃げ去ってしまいました。けれども、復活した、生けるイエスとの出会いの体験を通して、イエスにある希望を確信して、再びイエスの弟子として活動していたのです。

・この時の二人は、自分たちが何を根拠にどう生きていったらよいかという、彼らを生かす命の力に満ち溢れていました。それはイエスと共に、イエスのめざした道をすべての人と共に生きて行くという、心からのイエスへの信頼から生まれた信仰の力でした。神われらと共にいまし給う故に、他の何ものも恐れるに足らじ、というイエスの信仰を、二人も共有していたのでしょう。インマヌエルの信仰です。

・このような二人の弟子たちと癒された男を前にして、文字を知り、学があり、最高法院という権力の側に立っている議員たちは、戸惑い、驚き、もはや何も言えなくなってしまった、というのです。私はこの記事を読みながら、またこの最高法院の議員たちの姿を想像しながら、権力や富みによって立っている人たちのこの世的な見栄えの良さとは裏腹に、その依って立つ根拠である権力や富みが人を生かす命とは程遠いものであるかということに、改めて気づかされたように思います。ペテロとヨハネの前に沈黙する以外になかった最高法院の議員たち、そして、その議員たちによって政治的には導かれているユダヤの人々が哀れに思えてなりません。

・最高法院の議員たちは、「それで彼らに議会の外に出るように命じ、互いに話し合った」というのです。その結果、彼らがしたことは、ペテロとヨハネを脅すことでした。「この者たちに対して何をするべきであろうか。確かに、彼らがなした徴はエルサレムに住むすべての者に知られ、明らかになっているし、我々もそれを否むことはできない。しかし、これ以上民の中に広がっていかないように、もはや誰に対してもこの名によって語ってはならぬ、と脅しつけておくようにしようではないか」(16節、17節、田川訳)。

・この最高法院の議員たちの取った行動は、今日民主化の運動に対して、独裁的な権力者が軍隊をもって鎮圧する様に似ているのではないでしょうか。あるいは、東京電力福島第一原発の事故以来、何よりも命を大切にという思いで盛り上がった反原発の運動に対して、景気回復という飴やマスコミを使った情報操作によって水を差している、現在の政府や大企業の脅しに似ていると言えないでしょうか。人を脅すということは、無理やり力で抑えつけて、自分たちの言いなりにさせるということです。私は、最近孫崎享(うける)さんの『戦後史の正体』という本を読んで、戦後日本の政治家の中で、アメリカによる従属から日本の国の自立をめざした首相や政治家がアメリカの力によって失脚させられているということを知って、アメリカの脅しの凄さというものを改めて考えさせられました。

・脅しは暴力です。法によろうが、情報操作によろうが、直接的な実力によるものであろうが、脅しは暴力そのものです。無理やり力で人を押さえつけなければ、自分の主張を通すことができないということは、その主張の真理性が疑われざるを得ません。真理は、真理そのものの中に、それを覆う覆いが取り除かれることによって、偽りを明らかにし、私たちを説得する力があるものです。

・ですから、その真理を恐れる者は、それを隠し、人々から遮断しようとします。最高法院の議員たちも、ペテロとヨハネに、彼らがイエスの名によって生まれつき足の不自由な人を癒したことが、これ以上民衆の間に広まらないように、「今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう」(17節)ということになりました。「そして、二人を(議会に)呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように命令した」(18節)というのです。

・ところが、ペトロとヨハネは、以前だったらそこでひるんでしまい、彼らの言う通りにしたかも知れませんが、今は信仰の確信を得ていましたので、彼らにこのように答えたというのです。「神の言うことを聞くよりもあなた方の言うことを聞く方が神の御前にあって正しいかどうか、御判断いただきましょうか。我々は見たり聞いたりしたことを語らないわけにはまいりません」(19,20節、田川訳)と。

・不思議なものです。大祭司宅におけるイエスの審問の時には、イエスを知らないと言って逃げ出し、弱さを露呈したその同じペテロが、このように最高法院の議会で議員たちに答えたというのです。堂々として動じないペテロがここにいます。イエスの名によって起こる神の御業を見聞きしていたペテロは、信仰の確かさを与えられて、脅しに屈しません。

・ペトロとヨハネは、最後にまた脅迫されますが、無事釈放されました。最高法院の議員たちは、「皆の者がこの出来事につて神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである」(21節)と言われています。

・それにしても、この記事を読みながら、戦時下の日本基督教団の国家権力へのすり寄りを想い起さざるを得ません。ドイツのバルメン宣言を生み出した告白教会のように、「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聴くべき、また、われわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉の他に、またそれと並んで、さらに他の出来事な力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないという誤った教えを、われわれは退ける」(第一項目)という方向性を、私たちは見失ってはならないのではないでしょうか。