なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(178)復刻版

 昨日国会前での辺野古新基地建設反対の座り込みから、船越教会に来る途中で桜木町駅で人と会

いました。待ち合わせの約束の時間より大分前に桜木町に着きましたので、コレットマーレの中に

ある紀伊国屋に寄って、本を見ていました。そこで衝動買いしたのが、『未来は過去の中にある』

という本です。保坂正康、澤地久枝姜尚中の三人の講演と質疑応答がまとめられているもので

す。その中で保坂正康は、こんなことを語っています。

 「『あの戦争』に突き進んだ病的な社会空間は、国が国民を四つの枠組みで囲いこんでいった挙

げ句に形成された。「臣民教育」と「情報の一元化」と「弾圧律法」と「暴力」、この四つにじわ

じわと狭められ、家族全員が監視され迫害を受け、職を失い食っていけなくなれば、人はものを言

わなくなり、抵抗しようとすれば亡命か自殺しかない ― ということ」。

 この四つの枠組みによる現国家の我々市民への囲い込みは、ここにきてますます強くなっている

ように思われます。この本は「歴史をみつめ、新時代をひらく」ためにまとめられたものです。

 さて、今日も10年前のものですが、「黙想と祈りの夕べ通信(178)復刻版」を掲載します。


        黙想と祈りの夕べ通信(178-21]2003.2.23発行)復刻版

 先日ある集会で「暴力問題」について話題になりました。私も出席した昨秋の教団総会での出来

事です。神奈川教区のN議員が京都から出席していたHさんを蹴っ飛ばしたのです。余りの議長の

横暴な議事運営に対して、会場の一番後列に設けられた準議員や傍聴者席からHさんをはじめ多く

の人たちが抗議の声を挙げ、議長席の方に行こうとしたとき、N議員がHさんを蹴っ飛ばしたと思

われます。そのことをHさんがある雑誌に書いているので、神奈川教区として問題にし、N議員に

抗議すべきではないかとある方から出ました。その集会では、今後の教区総会で機会を見て直接こ

の問題を出したらということになりました。私は教団総会の場にいましたが、現場は目撃していま

せんでした。さて、数年前に阪神・淡路大震災の支援のことで、神奈川教区で集まりがあり、分団

に別れて話し合いが行われました。その時にたまたま私はN議員と同じ分団にいました。当時S氏

のナイフ事件が問題になっていました。N議員はこの問題を取り上げて、現地の教団の救援センタ

ーへの支援は問題だと言うのです。余りにS氏のことを言うので、「あなたも私も現場を見ていな

いので、S氏のことをどうこう言っても始まらないのではないか。そういうS氏が関わるセンター

への献金がいやならしなければいいではないか」と、私は発言しました。S氏の暴力問題を非難し

たN議員がHさんに暴力を振るったことは自己矛盾以外の何物でもありません。私は、S氏のナイ

フ事件とN議員の足蹴り事件は、その状況との関わりにおいて少し質の違う暴力ではないかと思っ

ています。だからと言って、暴力を肯定するわけではありませんが。

 上記の私の発言に続いて、伝道師から以下の発言がありました。2月15日に「日ノ丸、君が代

強制反対の集会に参加した。同じ時にNGOの呼びかけで世界反戦デモが世界中に広がって、1,00

0万人の人が世界中で参加したと言う。反戦デモはアメリカ中心のメディアにおいてはなかなかニ

ュースとして取り上げられることがないが、今回の同時に世界中で行われた反戦デモのような場合

には、メディアが取り上げざるを得なかったのだろう。日本でも同時にデモが行われたが、一つの

場所に集中してではなく、分散していろいろな場所で行われたので、右翼も妨害ができなかった。

ニュースでは横浜はなかったが、渋谷が報道されていた。イギリスでは50万規模のデモが行われ、

英国国教会も参加し、ブレア首相も無視できないと言う。世界の人々がもし心を一つにしていけ

ば、イラク戦争も阻止できるのではという希望を持った。

 また一人の方からの発言がありました。2・11の横浜の集会に参加した。私は、その集会で沖

縄のひめゆり部隊に参加し、生き残った一人の方が話されるというので出かけた。その方は淡々と

話された。多くの人の前で話すので緊張して喉が渇くということもあるのだが、その方の場合はそ

れとは違うと思った。昨秋の教団総会でも沖縄教区議長の山里牧師が、同じように何回も水を口に

含みながら話された。沖縄の人はかつて方言札をかけられ、沖縄の言葉を使うことができなかっ

た。この前の神奈川教区沖縄キャラバンに来られた信徒の方も方言札のことを話された。3歳年下

の妹は沖縄の言葉で自由に自己表現ができるが、自分にはできないと。方言札をかけられた経験の

ある方は、ヤマトの言葉を訥々と語るので、きれいな言葉として私たちは聞いてしまうが、それは

落し穴である。言葉は翻訳して語る場合、感情は十分に伝わらない。ひめゆり部隊の人は、沖縄の

言葉で語れば、もっともっと感情豊かに伝えられただろうにと、痛みを覚えた。今世界で起こって

いる戦争でも、同じことがどこかで起こっていると思うと痛みを感じる。ヤマトが沖縄に圧しつけ

たこと、教団のことも痛みとして受けめたい。


     「召された者、選ばれた者」(『ルターの日々のみことば』より)

 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるであろう。
     
                             マタイ20:16

 この聖句は、神の前に自分はいちばん偉いと思う人たちについて言っていますから、高位高官の

人に向けて語られているのであり、もっともりっぱな人をうち、最高の聖者をおびやかすもので

す。キリストが直弟子たちに向かって言われたのも、このような理由からです。というのは、世の

中で軽べつされ、弱く貧しく見える人が、心の中ではひそかに自分自身に満足し、自分こそ神の前

にいちばんだと考えることが、しばしば、あるからです。このような場合にも彼はあとになりま

す。他方、おそれと絶望の心でもって、自分の金銭や、名誉を軽んじる人があります。そして神の

前にもっとも小さい者であると考えています。このような場合、彼は先になります。

 最高の聖徒と言われる人たちが、このようなおそれにうたれたことはよく知られていることで

す。また、霊的に高い地位についていた人がたくさん堕落したのもよく知られた事実です。サウル

がどのようにして堕落したかよく考えて見てください。また、神がどのようにダビデを堕落するま

まにさせられたでしょうか。

 実にこれこそ、福音の本質のひとつです。どんなひとでも、もはや、自分がいちばん低いものに

されるおそれはないと言いきれるほど高くのぼった人もありませんし、また、のぼることもできま

せん。また反対に、いちばん高くされる望みがなくなるほど低く落ちた人もありませんし、また、

そこまで低く落ちることもできません。なぜなら、そこでは、あらゆる人間の功績は無価値であ

り、神のあわれみのみがたたえられ、「あとの者が先になり、先の者があとになるであろう」と明

確に宣告されているからです。「先の者はあとになる」ということばは、神があなたがたすべての

誇りをおとりになるという意味であり、「あとの者は先になる」ということばは、神があなたがた

のあらゆる絶望をとり去ってくださるという意味です。

                                  1525年の説教から