なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(177)復刻版

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(177)」復刻版を掲載します。

 下記の中にも出てきます「かながわ明日の教団を考える会」は、この年の前年(2002年)暮れに、神奈

川教区の中で有志によって立ち上げられた会です。54回目が今年の1月20日に開催されています。10年間

続いているということです。毎回30人前後は集まっていますが、60代、70代の信徒の参加者が多く、また

私の先輩牧師もいらしてくださいますが、なかなか若い教職の参加が少なく、今後にどうつなげられるか

という課題を現在負っています。この会の出発は、2002年秋の教団総会で、「名称変更議案」をはじめ

「合同のとらえなおし関連議案」がすべて審議未了廃案になって、沖縄教区議長の山里牧師が「さような

ら」と言って、沖縄に帰って行かれた直後です。当然教団政治・教区政治を踏まえて、戦責告白の線に沿

てみんなが集まろうということで出発しました。何とか今後も続けていきたいと思っています。   


          黙想と祈りの夕べ通信(177-20]2003.2.16発行)復刻版

 一人の人が以下のような発言をしました。昨日、ろばの家を会場にして今年度の寿青年ゼミが開催され

ました。「しゃべり場」と題されたこの会は、それぞれ参加者がこれまで寿に来て、触れて、感じたこと

を、二つのグループに分かれて共有する場でした。私が参加したグループでは、「寿に来て、感じた事」

「寿に来て自分の中で変わった事」「寿に来て自分の中に新しく生まれた事」を切り口に、それぞれの思

いが語られました。ある人はこう言うのです。「私はこれまでしっかり勉強して努力してきたので、今の

生活にゆとりがある。そのゆとりの中で私は寿に来て、いろいろなことに参加している。さっきから色ん

な方が、自分には家があって何でもある。寿に来たら申し訳ない気持ちになる、と言われているが、私は

申し訳ないとは思わない。自分の余裕の中で寿に来る。それを『駄目』『そんな人は来るな』と誰か言え

ますか」。その発言をもとに社会構造の中で「足を踏んでいる側」と「踏まれている側」ということが話

し合われ、「社会構造としての『抑圧・被抑圧』は認識しつつも、一人と一人の関わりの際に、それを前

提としては、何も新しい関係性は生まれない」という発言も出ました。その後も興味深い話の展開になり

ましたが、それは大学生を中心とした若い人が共に悩み、共に「生み出そう」とする作業であったように

思います。閉会後、近くの焼肉屋で会食があり、更に良き交流が持てました。

続いて別の方から、昨日横須賀で行われたキリスト者の平和集会への参加報告とそこで感じたことが語ら
 
れました。歌やトークリレーが行われたが、ある牧師の語られたことが印象的だった。その牧師は横須賀

にもっとも近い教会の牧師であるが、このような平和集会には一回も出たことが今までなかった。今回初

めて参加したのは、自分が牧会する教会に自衛官がおられて、「戦地」へ赴く前に洗礼を受けられた。彼

が行く前にその牧師が「あなたにも家族があるように、相手にも家族があることを覚えておいてくださ

い」と語る経験があったからだそうだ。また様々な方の色々な思いが語られたが、対イラク戦が始まろう

とする今、自分は父が戦死している中で、クリスチャンとしての態度表明が求められているのではない

か。どういう道を選ぶかが問われている。若い人たちに希望のある世界を、子どもたちが命を失わない世

界を、連帯して創りだしていかなくてはならない。その会に参加して、そう思うと同時に大変つらい気持

ちになった。

またもう一人の方からの発言がありました。今日は朝の礼拝に出席できず、夜のお祈りの会に出席でき嬉

しい。テレビを観ると、今にもイラクとの戦争が始まりそうで、暗い気持ちになった。神様にお祈りする

ことが出来て嬉しい。そして、神様にお祈りすることが出来ない人もお守りください。お祈りの会を感謝

している。

以上は、伝道師にまとめてもらいました。私は階下ホールで開かれていました「かながわ明日の教団を考

える会」が予定の時間を延長しましたので、黙想と祈りの夕べの集いには今回は途中参加でした。







「キリストの栄光」(『ルターの日々のみことば』より)

 これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け。
                            マタイ17:5

 このことばによく注意し、神からキリストを引き離そうと、みことばを無視する思想を警戒しなさい。神は、天にのぼって、天使たちと共におられる神のみわざを見よ、と命じられておりません。ただ「これはわたしの愛する子である。これに聞け」とおっしゃるのです。このみ子のうちにあって、わたしはあなたのところまでくだり、それによって、わたしを見、聞き、ふれることができるようにしよう。わたしを求め、罪からのがれて救われたいと願う者は、ここにおいてのみわたしを見ることができる。
そこで、言葉を通じて、わたしたちはただちに理解し、こう言わなければなりません。ここに神ご自身が語っておられる。わたしは彼にのみ従う。他のいかなるものにおいても、神について聞かないし、学ぶことはない。(パウロも言っているように)、この人のうちにのみ、神のあらゆる徳は満ち、このかたから離れては、神を見いだすこともできないし、お会いすることもできないからである。ただ、このかたのことばを聞き、このかたのみわざを見る時にのみ、神のまことのことばとみわざを見聞きしているのである。

                    ヨハネ福音書14章の講解