なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(32)

船越通信癸械押  。横娃隠映11月20日    

・11月13日の日曜日は礼拝後、礼拝堂の前にあった大きなテレビを、外階段下まで持っていく作業をみんなでしました。幸い成人男性が5人そろっていましたので、何とか運ぶことができました。電化製品ですので、引き取ってもらうためにも多少費用がかかるようです。11月19日の土曜日の午前中に引き取ってくれる業者の人が来ました。電話があったので、雨の中外で待っていましたら、軽トラックで運転している人が一人だけで来ました。日曜日には4人で何とか運べた大きなテレビでしたので、大丈夫だろうかと思いましたが、私も手伝い台車に乗せてテレビを自動車まで運び、何とか荷台に積み込むことができました。

・11月14日(月)午後1時半から紅葉坂教会で、神奈川教区福祉委員会主催の秋の研修会が釜が崎の本田哲郎神父を講師にして行われました。船越教会からは私と連れ合いとTさんを含めて7人が出席しました。船越教会の聖書研究で本田哲郎さんの『聖書を発見する』という本をテキストにしていますので、その関係もあり、みなさん、本田哲郎さんの話を直接聞こうと思い、出席されたのでしょう。本田さんは、ゆっくりと噛みしめながらお話をしますし、お話の内容も表現においては噛み砕いて話して下さいますので、そう難しいものではありません。しかし、本田さんの講演は、聖書に即した話で、明快かつラディカルですので、抵抗を感じた人も多かったのではないかと思います。

・まず社会福祉小委員会の委員長であるI牧師から発言がありました。I牧師は障がい者を排除する教会はイエスの福音に立つ教会とは言えず、教会がイエスの福音にふさわしく変わらなければならないと言われました。このI牧師の問題提起は一貫したものであり、数年前に私が事務局長を引き受けて小田原で行われました全国の視覚障がい者の集会での開会礼拝でも同じことを話されました。その時の集会の講師が本田哲郎さんで、その時以来本田哲郎さんとI牧師の交流が続いています。その小田原の集会後、I牧師を中心に、毎年7月末頃に本田哲郎さんを囲んで少人数の一泊の集まりが都筑のふれあいの丘あゆみ荘で行われています。私も出席できる時には参加しています。

・本田哲郎さんは、聖書の基本的なメッセージを、旧約新約を通して最も小さくされている人を選んで用いる神の選びに見ています。モーセもイエスも被差別者で、社会的には難民(寄留者)の一人だったと言います。そのような最も小さくされている人を選ぶ神は、彼ら・彼女らを扇の要のように、彼ら・彼女らにその他の人びとが連帯して、最も小さくされた人を解放する神の業に参与していくように、私たちすべてに求めているのだと言うのです。来生は人間には分からないから神さまにお任せして、「神の心が人々によって行われるところ、すなわち神につながる地上の世界」である神の国を信じて、「この社会で最も小さくされている人の痛み、苦しみの現実に視座を据えて、そこから真の解放をめざして歩まれたイエスを信じて歩みを起こす」ことではないかと言うのです。そのためには、どんなに教会で信仰の教えを学び、神学を養っても、それが返って障害になる場合もあり、上目線から他者を見てしまうことにもなるのだと。イエスは他者の苦しみや悲しみという痛みへの共感をもって生きられた方であり、そのようなイエスによる連帯的な生を私たちも歩まなければならないのではないかと言うのです。

・聖書の民が難民であったということは、難民の視点から捉えられた聖書の信仰思想を理解するためには、難民の視座をもたなければならないということです。本田哲郎さんが釜が崎の労働者に出会って、それまでの自分の聖書解釈がそこそこ豊かさを享受できる者の立場からの聖書解釈であったことに気づき、聖書の翻訳をやり直したというのは、私たちがどこに視座を据えて聖書を読むかを問題にしているのでしょう。

・11月17日(木)19:30-22:00聖書研究がありました。この日も本田哲郎さんの『聖書を発見する』第4章「怒りと共感」の前半部分を扱いました。その中には「貧しく小さくされてもいない、そこそこゆとりのあるわれわれのような者はどうすればいいのか。イエスはその答えを示しています。『わたしはぶどうの木で、あなたたちは枝である』(ヨハネ福音書15章6節)。・・・ぶどうの木とは、いちばん貧しく小さくされたイエス自身であり、具体的にはイエスの『身内である、このいちばん小さくされている者たち』(マタイ福音書25章40節)に連帯することです」(167頁)とあります。「神の国は小さくされた人々による解放と平和と喜びの社会なのだ(ローマ14:17)、と聖書は教えているのです。神の国(天の国)とは、死んでからの世界を指しているのではなく、地上に実現すべき、神につながる世界のこと。つまり神と同じ感性、同じ価値観によって互いに仕え合って生きる社会、ギリシャ語で「バシレイア・トゥ・テーウー」は「神の支配のおよぶ領域」を指す表現です」(168-169頁)。「来生のことは、神にお任せするしかない(169頁)。大事なのは、この地上で神の価値観、神の視座を共有した社会を築いていくことであり、それが神の国であり、『天の国』なのだとうことです。したがって、神の国、すなわち神につながる世界は、『小さくされた人びとによる解放と平和と喜びの社会』であるといえるわけです」(169頁)。「イエスが行動を起こした動機は、『はらわたをつき動かされた』こと=痛みの共感でした。・・・イエスは神につながる世界(神の国)の福音を告げ知らせるために行動を起こしたのであって、キリスト教という宗教を広めるためではなかった」(174頁)。「ユダヤ教にしてもキリスト教にしても、もともと難民(寄留の民)の宗教だったということ、これはもう絶対に忘れないで欲しい」(同)。

・この聖書研究で読んだ本田さんの本の一節からも、本田さんの基本的な聖書理解、イエス理解をうかがい知ることができます。聖書研究である方は、本田さんの言っていることが本当にそうだと思えて来たと言っておられたのが印象的でした。