なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(23)

マルコ福音書による説教(23) マルコによる福音書6:30-44
         
・30節に、「さて、使徒たちはイエスのところに集まってきて、自分たちが行なったことや教えたことを残らず報告した」とあります。これは、6章6-13節に記されていましたイエスによる弟子の派遣に関係しています。イエスによって村や町につかわされ、そこで教えたこと、弟子たちがしたことを、彼らが再びイエスのもとに集まってきた時に、すべてイエスに報告したというのです。弟子たちにとって、(すなわち、イエスを信じてイエスに従う者全ての者にとって、今日の私達キリスト者にとっても)、その言葉や行いのいっさいは、ただイエスの前に報告されねばなりません。イエスは彼ら・彼女らの一切に関わるただ一人のお方ですから。パリサイ人やサンヒドリンの議員たち、ヘロデやロ-マの官権は、民衆の〈主〉人して、自らの思惑によって民衆を支配しようといたしました。そのような自ら支配者たろうとする者の力は、当時の民衆の一人でもあった弟子たちにも迫ってきたでしょう。そして、彼らも知らず知らずのうちに、その力に巻き込まれ、ある役割をになわされてしまったにちがいありません。弟子たちは、そのような具体的な場所と時代という歴史的な現実に生活する者にまといつく様々なこの世の影響力を受けます。けれども、弟子たちにとって心から自分と自分の一切を委ねられるのは、イエスだけなのです。それ故に、他の誰にでもなく、彼らは、「自分たちが行なったことや教えたことを残らず」イエスに報告いたします。

・イエスの生前、彼の弟子たちが、そのようなイエスのものとしての己れの新しさを正しく認識していたかどうかは、まことに疑わしいと言えます。しかし、使徒としてイエスによって町や村に派遣された弟子たちの活動は、彼らがどのように意識していたとしても、イエスのものとしての彼らの実存に根ざしているのです。イエスは弟子たちを召し出し、イエスのものとしてはぐくみ育てようとして、働きから帰ってきた弟子たちに「休み」を与えようとされます。31節に、「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた」とあります。イエスは、弟子たちがイエスのものとしてこの世にあって立ち続けるために、「休み」を必要とするということを知っておられました。イエスご自身しばしば寂しい所で祈られたと福音書に記されていますように、弟子たちの働きは、彼ら自身が常に新たにイエスのものであることを、それ故に、イエスによって与えられる課題を負って生きる者として、この世のただ中で立つべく遣わされる力を受けてこそ、になえるものだからです。そのために、働きのさ中に自己を神の前に取り戻すことが、必要です。

・イエスに命ぜられて、弟子たちは、「そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行」きます(32節)。ところが、多くの人々がイエスや弟子たちが出掛けられるのを見て、先回りして、イエスや弟子たちが行こうとされる所で、彼らを待っていたというのです。このことは、イエスの弟子たちがこの世の人々と向かい合わなければならないことを物語っています。この弟子たちの姿は、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(34節)とありますように、重荷を負う者たちと向かい合う教会の姿そのものです。

・まず群衆について考えたい。ここに記されている群衆の中には、社会層からすればいろいろな人たちがいたでしょうが、様々な形で、この世においては限界状況にぶつかっていた人たちであったと考えられます。或はそこにある問題を自覚的に考えさせられていた人、つまり、神の前に立つ日のことを恐れていた人たちでありましょう。そして彼らは、既存の宗教(ユダヤ教)や政治には全く期待できないことを知っていたにちがいありません。かといって新しい宗教が、例えばパリサイ派サドカイ派に対するエッセネ派のようなものが、彼らを重荷から解き放ってくれるとは思えなかったでしょうし、新しい政治勢力がまたそのような力をもっているとも考えられなかったにちがいありません。ユダヤ人のような大国の狭間で生き続けてきた歴史を持った人々にとっては、政治の動きに対して賢く振る舞いこそすれ、その動きに安易にはのれないと思う方が強かったでしょう。ナショナリズムに対しても、それにのっかているのは、徹底的に打ちのめされたことのない人々であって、「地の民」と呼ばれていた人たちにとっては、ロ-マもユダヤもどちらも関係ないというところがあったのではないでしょうか。暴力的に協力させても、支配イデオロギ-にしても、民族的イデオロギ-にしても、どちらに対しても自分から積極的にかつぐ人は、そういう人たちではないのです。そうしなければ生きていけない人々にとっては、己の生存を維持するためには、ロ-マであろうと、ユダヤであろうと、何でも利用できるものはしていくでしょう。

・「飼う者のない羊のような」群衆と言われる場合、実際の群衆がそれぞれ属している社会的立場やそれぞれの意識においてではなく、群衆が存在そのものとして社会的に置かれてしまっている、異郷にさまよう人間存在を見つめているのです。そして現実に最もそのような異邦人としての人間の姿を典型的にあらわしている人は、不治の病人や悪霊につかれた人、罪人という、この世にありながら、この世によっては生きられない人たちなのです。彼らはこの世にある人間存在の矛盾を体現している者であって、彼らを覆っている現実は、事実としてすべての人間をおおっている陰でもあるわけです。「飼う者のない羊」とは、ある特定の人を指しているのではなく、群衆そのもの、もっと全体的に考えれば、全ての人間を指して言われている言葉なのです。彼らの存在自体が神を呼び求めている。うめきながらからだのあがなわれることを待ち望んでいる(Rom.8:23)者です。イエスもそして弟子たち(教会)も、休む暇もなく、そういう人間の現実に直面しているのです。そこでイエスはどうされるのでしょうか。

・イエスはいろいろと教えられたと言われています。その内容は何でしょうか。神の国の福音でしょう。神の支配がこの世の支配を突き破る形で到来してくるのだということ、そしてそのことを受け入れ信じる者は、既に神の国に所属しているのだという約束の言葉でしょう。イエスは譬えを持って神の国の福音を群衆に語ったの違いありません。そのイエスの言葉に聞いている群衆は、時の経つのも忘れていたのでしょう。夕方になり、あたりが暗くなって来ました。イエスのそばにいた弟子たちは、心配顔で群衆を解散させてそれぞれ近くの町や村へ行って、食物を買うようにさせてくださいとイエスに勧めます。先を見越した現実的な配慮ではありませんか。多くの群衆を食べさせるだけの食糧は、どこを捜してもないことを弟子たちは知っていたからです。しかしそれは何という無理解なことでしょうか。イエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに(彼女らに)食べ物を与えなさい」と命じます。弟子たちはどうやって男5000人もの人たちに食物を与えられるか、現にないものをどうしたら調達できるかと考えます。しかし、イエスはそこにあるものに目を注ぎます。5つのパンと2匹の魚がイエスの前にもって来られます。群衆はイエスの命令によって、隊列に分けられ、整然と青草の上にすわります。そこでイエスは「5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンをさいて、弟子たちにわたしては配らせ、2匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した」のです。私達はこのイエスの奇跡の風景を像として描くことが許されるでしょう。

・イエスは教えを語り、病の人を癒し、悪霊に憑かれた人から悪霊を追放しただけではなく、空腹の群衆をそのまま自由解散させて、ひもじい思いをさせることがしのびなかったのか、「五つのパンと二匹の魚」を分かち合ってみんなが食べて満腹になさいました。イエスは群衆の空腹を満たしたのです。私は、ここにイエスがめざしている人間の解放が、単なる観念的なものではなく、みんなが食べて満腹することでもあるということに、深い意味を感じます。みんなが食べて満腹したという人々の満ち足りた姿は、何という豊かな美しい光景でしょうか。私達は神の国の現実(リアリティ-)を、そのように信じることが許されているのです。この物語は初代教会でなされた聖餐との関連で伝えられていったのでしょう。荒井献によれば、聖餐の歴史的な起源としては、イエスが罪人たちとした食事であろうと考えられています。そのような背景の中で、この風景は、イエスを王として迎えて祝われる神の国の祝宴を想像することが、もっともふさわしいと言えます。「飼う者のない羊」のような群衆に対して、神の国の福音を語られるイエスは、そのしるしとして、このような奇跡の出来事を群衆に与えているのだと思います。

・弟子たちは、イエスに呼び出されることにより、この神の国の証人としてこの世に立てられているのであります。彼らのアイデンティティ-はそこにあります。そこから彼らの課題もおのずから明らかにされるでしょう。イエスの再び来たり給う時を、その神の国の完成を、世にあってこの世の力に支配し尽くされない者として、その時を待ち望む者として、弟子たちは、そしてそれは私たち一人一人でありますが、私たちはこの世の生を歩むのであります。私達のなすべきことは、ただ一つ、それぞれが置かれ、自分もそこを選び取った場にあって、イエスのものとして生き、かつ死ぬこと、ただそれだけであります。み心ならば、私達は全ての者にイエスとイエスのみ国とをはっきりと仰ぎ望む信仰が与えられますように、共に祈りたいと思います。アーメン。