なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信№13

船越通信№13   2011年7月3日     
 
  625日(土)には第126回神奈川教区総会が清水ケ丘教会で開催されました。この総会は准允・按手以外は、2010年度の諸報告が内容です。議員提案議案として「北村慈郎教師の免職処分への抗議ならびに処分撤回を求める件」が上程され、この議案の「問題の所在」1)の削除という修正案が議場から出され、私はその修正案を支持し、議案提案者も原案を取り下げ、修正案だけの審議になりました。その結果賛成多数でこの議案は可決されました。同種の議案が九州、西中国、東中国、兵庫、大阪、京都教区が承認可決しています。東北教区では建議案として同種の議案が出され、常置委員会付託になっています。神奈川が加わり、私の戒規免職処分撤回が8教区で問題になり、7教区は決議をしてくれました。教団には17教区があり、沖縄教区は教団と距離を置いていますので、ほぼ半分の教区です。この事実を教団執行部は正当に受け止めてもらいたいと思います。
  626日(日)は礼拝司会者、献金当番、当番をお願いしていた方々が、連絡の不行き届きからか、皆さん礼拝に来ませんでした。急遽私が司会をすることにし、その他の当番は出席した方が代わって何とか礼拝を最後まで行うことができました。初代教会の家の教会では、おそらく当番などは決められていなかったのではないでしょうか。そういう点では、礼拝に来ることが出来た人が自分たちで役割をこなしていくことで良いのかもしれません。しかし、当番を誰がするのかを決めてあるとすれば、できるだけその方が担うのが望ましいでしょう。この日の礼拝ではMさんの転入会式がありました。私は、転入会式の時にはヨハネ福音書15章のぶどうの木のたとえを読むことにしています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)。私たちは、自分の外側にイエスという中心をいただいているのです(この日の説教でこのことをお話しました)。このことがどんなに大きなことであるかを、私たちは当たり前に考えていることが多いので、感じていないかもしれません。しかし、自分にとって他者であるイエスを自分の中心にして生きていくときに、私たちは常に他者であるイエスと心の中で対話しています。自分ひとりだけ生きていくのではなく、同伴者であるイエスと一緒に生きていくことが出来るのです。ですから、孤独ということがありません。自分とイエスがぶつかって、自分の方からイエスと一緒なんていやだと思うこともないとは言えませんので、そのような時は一時的に孤独ということがあります。しかし、そういう風に自分からイエスと疎遠になろうとしても、イエスの方から近づいてきて、一時的な疎遠も長続きしません。不思議なものです。転入会式のときには、この同伴者イエスとの関わりの大切さを再確認しています。そして、いつも二つのことを勧めとしてお話します。一つは、私たちの方から神=イエスに近づく道は聖書を読み祈ることです。この二つのことを大事にしてくださいとお願いします。もう一つは、転入会した教会を大切にしてくださいということです。何よりも教会に来るということは礼拝にくるということです。共に礼拝することによって、個人的に聖書を読み祈るだけではなかなか見えない、神と人との関わりの深さを知らされます。その意味で、礼拝も聖書を読み祈ることと共に、私たちが神=イエスに近づく道なのです。この日は礼拝後、710日の私の就任式のことについて残れる人で相談しました。そして、私たちは比較的早めに船越教会を出て、鶴巻に向かいました。
  626日の礼拝説教はマルコ福音書213-17節の徴税人レビの召命の記事でした。まずこの個所の最初に「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」とあります。「湖のほとり」に注目し、この場所がカファルナウムの住民にとっては憩いの場所であり、祈りの場所であり、仕事の場所でもある、日常的な場所であること。シモン、アンデレ、ヨハネヤコブ4人にとっては召命を受けて弟子となった場所です。イエスにとっては集まってきた群衆に教えを語った場所であり、多忙な活動からしばし退く場所でありました。また、その場所は若い男女の愛の場所だったかも知れません。しかし、そのような人々の日常的な生活の場のなかに、そこで生活している人間が造り出した、人と人とを分け隔て、一方が他方を蔑み、支配抑圧する壁が張り巡らされているのです。5000人と4000人の食事の物語では、女と子どもは数に入っていません。男中心の父権制社会ですから。そういう目に見えない多くの隔ての壁が築かれている日常の場を生きる人々に、イエスは身近な譬えによって神が人間とどのように関わりたもうのかをありのままに語ります。野の花、空の鳥を指して、神の配慮の偉大さを示し、人々を思い煩いから解放します。野の花も空の鳥も、他と自分を比べず、与えられたありのままを生きています。「みんなちがって、みんな美しい」のです。この絶対的なそれぞれの神との固有の関係、無償の愛に生かされている己を生きる者は、他者も神にあって同等対等な仲間として受け入れます。その時、日常の場に張り巡らされている見えない隔ての壁が取り払われ、野の花、空の鳥のように伸びやかに生きることができます。レビはその自由をイエスから与えられて、自分の家にイエスを迎え入れ、仲間と共に食卓を囲みました。それを見て、イエスの弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言うファリサイ派の律法学者を尻目にして。イエスを自分の中に迎え入れ、人を分け隔てるこの世界は決して絶対的ではないことに、いつも気づくことができますように。