なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(5)

「いのちの力」  申命記30:11-15、
         マルコによる福音書1:21~28
   
  エスが私たちの中に来られるとき、イエスはどのような方として到来されるのでしょうか。また、イエスの到来によって私たちの中にどんなことが起こるのでしょうか。マルコによる福音書1:21-28から、そのことを聞きたいと思います。
  この前1:16-20のところで、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17) というイエスの招きの言葉によって、シモン、アンデレ、ヤコブヨハネという四人の者が、漁師という日常の生活のただ中で、イエスと共に真実な生活へと立ち上がって歩みだしたという事を学びました。
  マルコによる福音書の著者は、この弟子の召命に続いて、安息日ガリラヤの湖畔の町カペナウムにある会堂で起こったといわれます出来事を記しています。この出来事の背景(状況)となっていますのは、ユダヤ人の町や村で安息日ごとに会堂で行われていた礼拝です。会堂は、ユダヤ人の礼拝の場所であり、初等教育、地方的裁判等も行われていたといわれます。エルサレムにある神殿では、祭司がいて、神殿にお参りに来る人々のために犠牲の祭儀が行われていました。町や村に立っていました会堂では、律法学者、パリサイ人の指導のもとで、その町や村の人々に神の言葉である律法の知識が宣べ伝えられていました。ですから、それぞれの町や村にあります会堂は、聖書(旧約聖書)を読み、祈りをするための場所でありました。
  私たちの教会堂も、ユダヤ教の会堂の流れをくんでいると思いますが、日本の場合には、むしろ戦前のお寺がその地方で果たして役割に近いのではないかと思われます。子供の教育、生活相談、お経を覚える(講話)等。ユダヤ人の場合、町や村に住んでいるユダヤ人すべてがユダヤ教徒とでしたから、ユダヤ教は彼らの日常生活と密接に結び付いていたのであります。そのような中で、安息日ごとに礼拝が守られ、聖書(旧約聖書)が読まれ、その説き明かしが行われ、祈りが捧げられていました。このカペナウムの会堂でも、神に祈りが捧げられ、神の言葉が語られていました。この記事によりますと、そのような礼拝の場所に「汚れた霊に取りつかれた男」がいたといわれます。
  これはどういう状況を意味するでしょうか。このカペナウムの会堂では確かに神への礼拝がなされています。神の言葉である旧約聖書の言葉が読まれ、学者の説き明かしがあります。祈りが捧げられもします。その教えに従って人々は律法を忠実に守る生活を心がけ、それなりに一生懸命生きようとしていたでしょう。その安息日の会堂に、「汚れた霊に取りつかれた男」がいました。けれども、律法学者には、悪霊を追い出す力がありません。神の言葉としての律法の知識は教えるけれども、その知識には本当に人を生かす力がないのです。神については色々語られるけれども、生ける神ご自身がそこにはいらっしゃいません。
  このようなカペナウムの会堂の状況は、人々が神を礼拝しながら、本当にはそこに生ける神がいないという、まことに悲惨な状況です。問題を抱えて苦しんで生きている人がいても、立ち上がらせる力はなく、悩みを抱えたまま、その礼拝の場を去っていくのをそのまま見送るという現実。或は、そこには本当に問題を抱えて苦しみ、喘いでいる人は来なくなっているのかもしれません。イエスが見たのはまさにそのような空洞化した神信仰にある会堂宗教でありました。神の言葉としての律法は語られています。神への祈りは捧げられています。しかし、真に神を信じるということ、つまり、聖霊によってその人が生ける神と結び付き、神をアバ父よと呼び、その子供とされるという関係が現実に起こっていない死んだ信仰であります。そういう神についての死んだ知識を教える律法学者たちに導かれている民の絶望的な現実であります。「汚れた霊に取りつかれた」憐れな男がそこにいても、彼をそのままの状態に放置するにすぎません。その人の生活を脅かす何事も起こらないのです。そのような会堂宗教は全体として「汚れた霊」のとりこになっているのです。そこには確かに宗教的な生活はあります。安息日ごとに会堂で礼拝が行われており、人々は忠実にそれを守っているのですから。しかし、そのような宗教的な生活は「汚れた霊」を追放する力は持たないがゆえに、「汚れた霊」のとりこになっている人間の日常性を何ひとつ超えるものではありません。そのような宗教生活そのものが日常性の一つになってしまっています。そして全体として、病気や悪霊が覆っている日常性の下に人間が放置されているのです。ここでの汚れた霊につかれた男の存在はこの男一人の問題ではありません。
  パウロがガラテヤ人への手紙4章で、イエスとその福音によって歩み始めたガラテヤ教会の人々がユダヤ主義者の侵入によって、再び元の生活に戻っていこうとしているところで、次のように語っている。「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っているのに、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷としてつかえようとしているのですか」(4:8、9)。
  パウロがここで語っているのは、我々が神を神とする聖霊によって神と結ばれた関係にない場合、何か他の本来神ならぬ神々(力)と結び付いてその奴隷となっているのだ、というのです。このカペナウムの会堂は、礼拝が行われ、学者による聖書の説き明かしがあり、祈りが捧げられていたにもかかわらず、なお「この世のもろもろの霊力の下に、縛られている」古き世に属していたのです。宗教的な生活はあるけれども、生ける神の下に人々が立っていません。 イエスはそのような「会堂に入って教えられた」のです。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者として教えになったからである」(22)
  エスと律法学者とを区別するのはその権威でした。しかし、イエスの権威は自らふりかざした権威ではありません。人々が認めた権威です。逆に律法学者は、律法の権威を盾に人々を教えていました。その違いは何でしょうか。それは、イエスはその教えを成就において語ったことにあります。イエスは、神の国は近づいたと語っていますが、神の支配の突入を確信していたのです。つまり、イエスは神の言葉について語ったのではなく、神の言葉を生きた者として、教えを語ったのです。イエスの教えにはその背後に常に十字架があります。彼は神の言葉を御自身において具現したものとして語ったのです。それ故、その言葉には力がありました。日常性に埋没する宗教的生活ではなく、神の言葉の下に我々を立たせ、我々の日常性を問い直し、新たなる生活へと引き出すからです。イエスの言葉は、生ける神の言葉です。そして、その言葉には「汚れた霊」さえ追放する力があるのです。そのようなイエスの出現は、人々の中に「これはいったいどういうことなのだ」という衝撃を起こさせるものでありました。
  このイエスの教えが語られ、悪霊が追放されるとき、人々の間に生起する衝撃は、いったい何であったのでしょうか。人々はどのような出来事にぶつかって驚きの声を挙げているのでしょうか。そのことを考えるとき、「汚れた霊につかれた者の叫び」が理解の助けを与えてくれます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。
  悪霊とイエスは何の関係もありません。それ故、両者が共存することは不可能です。ちょうど律法学者と汚れた霊につかれた者が一つの会堂に一緒にいることが出来たように。両者は根本的に対立する者であす。悪霊の支配権が存続しているところには、イエスは存在しません。イエスが存在するときには、悪霊の支配権が駆逐されているのです。
  悪霊は更に「我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫びます。
 イエスによって我々が聖霊による神との結合の中に置かれるとき、悪霊との結合は既に断ち切られているのです。イエスを主とするとき、他の何者も主としない、ということが同時に言われるのです。二人の主人に兼ね仕えることは出来ないからです。従って、イエスがその中心に立ちたもうところに悪霊の支配権は滅亡します。悪霊はイエスに対して、神の聖者だといいます。古代において名を呼ぶことは、名はその力を現していたがゆえに、その人から力を追い出すことであるといわれます。しかし、この悪霊の叫びは、断末魔の叫びであるといえましょう。今や自らの支配権を脅かす者が、そこに現存することを悪霊は認めているのです。つまり、イエスの来臨は、すなわち神の国が来たことであり、神の力がこの世に突入していることだからです。
  エスを信じる者は、この世と神の国の交点に立ちます。そして、神の国の完成を信じることができます。この単純な勝利を信じてよいのです。