なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(4)

「神の招く声が」     エレミヤ書1:4-10、 
             マルコによる福音書1:16-20、
               
       ここに登場する4人の人物~シモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ~は、イエスの召命を受けて弟子となった者たちです。福音書を読みますと、イエスガリラヤに現われ、人々の中で教えを語り、病人や悪霊につかれた者たちを癒す働きをして行く中で、「わたしに従ってきなさい」と招きの言葉を語られました。
       今日の記事の他にも、2:13以下では、アルパヨの子レビという取税人に、イエスは、「わたしに従ってきなさい」と言われました。そこでもレビはすぐにイエスに従ったと言われています。しかし、10:17節以下に出てきます、金持ちの男の物語の中では、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と質問する男に対しまして、イエスは、まず十戒の後半になります隣人愛に関する律法~殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え~示します。それに対しまして、金持ちの男は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えています。そう答えた男に、イエスは、「彼を見つめ、慈しんで」「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従ってきなさい」と言われました。すると、男は、イエスの「言葉に気を落して、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」と記されています。ここでは、同じイエスの招きの言葉が向けられながら、イエスに従い得なかった金持ちの男のことが書かれています。
       以上は、特定の人物に向けて、イエスが「私に従ってきなさい」と言われたものですが、8章34節以下を見ますと、「それから群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」とありまして、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、「群衆と弟子たち」のすべてに向けて、この「わたしに従いなさい」という招きの言葉が語られているのであります。
       このようにマルコによる福音書全体の中で、「わたしに従ってきなさい」というイエスの招きの言葉を見ますと、この言葉によって示されていますイエスとの関係のあり様、つまりイエスへの「服従」ということは、弟子たちのあり様であり、そしてそれはすべてのイエスを信じる人たちのあり様でもあることが分かるのであります。
       16節、「イエスガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった」とあります。二人は漁師でありましたから、この時も、いつものようにガリラヤ湖に舟を出して、投網による魚取りに励んでいたのでしょう。彼らは、毎日お天気がよければ、漁に出掛けて行き、その漁獲物によってその日の一家の暮らしを立てていたのでしょう。ヤコブヨハネも同様でした。彼らは漁にいくための準備をしていたのでしょうか。舟の中で網を繕っていました。ヤコブヨハネの場合には、彼らと一緒に彼らの父親と雇い人たちも働いていたと記されています。そういう風景は、イエスの時代のユダヤ社会では、ガリラヤの湖やその岸辺によく見られたにちがいありません。
       ここに記されています4人のように、〈暮らしのために〉働くということは、私たちにも共通した生活です。生き延びて行くために、生存を支えて行くために、とにかく働かなければならないわけです。そしてそういう生活の維持ということで、どれだけ私たちが没主体的に(機械的に)生きているかということも思わずにはおれません。多くの場合、既に造られている社会のなかに後から加わって、私たちは生活するものです。そしてその後から私たちが加わる社会は、必ずしも人間的な社会ではなく、人間疎外を再生産する社会であるわけです。革命によって社会が変わり、生きやすくなることは、そう簡単には起こりません。毎日の暮らしを立てるための生活は、どこかに偽りがあるのではないか。本当の生活ではないように思えてならない。人間として生きて行くとうことは、本当にはどういうことなのだろうかという問が、頭をかすめます。
       しかし、そのような根底的な問いを持つことは、家族があり、その一人一人の事を考えると、その人にとって心穏やかにはいられません。本当の生活などということは考えずに、今迄通りでいいではないか。たとえ今の生活が偽りの平安であったとしても、それを崩したら大変なことになるのだということで、今の生活に止まり続けるという人も多いことでしょう。あるいは、本当の生活なんてありはしないのだ、人生なんてこんなものだ。どうせ偽りでいっぱいなのだから、いかに上手に流れを泳いで生きていくか。そして楽しく、その時その時を過ごしていくことではないか、という人もあるでしょう。とにかく暮らしていかなければならないのだから。この考え方は、私たちの中でも大変強いように思います。
       そしてそのような暮らしを優先する思想から、今ある人間関係が築かれます。夫婦の関係でも、親子の関係でも、あるいは家の絆を超えて広がる様々な他者との関係でも。たとえば夫が毎日会社に働きに行きます。会社ですごく働かされます。肉体的にも精神的にも。休みもなく、とにかく勤勉に。そうすると必然的に夫婦の話し合いも少なくなります。家族の団欒も、家族で過ごす時間も。グチがでることもあるでしょうが、それでもやめるわけにはいかないのです。問題をいろいろ感じながらも、生活はつづいていくことになります。「暮らしのために」。
       エスは、私たちの日常性の只中に来られて、そのような私たちを見て、「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と呼び掛けているのです。「人間をとる漁師」は、原文では「人間の漁師」となっています。これは比喩的な表現で、エレミヤ書16章16節などに、「人間をすなどる者」としての漁師の例があります。エレミヤ書では、あまりよくない意味で使われていますが、イエスの場合には、よい意味で用いられています。
       鈴木正久氏は、『神の国のおとずれ』の中で、こんな風に言っています。「人間として生きることは、単なる生存にとどまらず『人間をとる』こと、真の人間として自己または隣人を獲得することであり、それこそ『生活』と呼べるものではないか? イエスの召しは、浮き世の海の中で、真の生活を、人間性を喪失している私たちを、主体的・自覚的生活者に生まれ変わらせる」と。
       この弟子召命物語は、ブルトマンによりますと、「イエスの驚異的な力によってそれまでの生活圏から全面的に解放された弟子たちの共通の体験を、むしろ象徴的、且つ絵画的に表現しているのである」と言われます。
       「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」というイエスの言葉に、彼らはただちに「網を捨て」「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」イエスについて行ったのです。これは彼らの気まぐれではありません。又、古代人だから、現代人とは大分暮らしが違って、簡単に捨てられたのだということでもありません。父を捨てるということは、昔も今も変わりません。もちろん、そのことはただ捨てればよいということではありません。
       エスの召命は、その召命に応えて生きていく者が主体的・自覚的生活者、つまり人間となっていくことなのです。神に命与えられた者として神に応えて、神のみ心である神を愛し(大切にし)、隣人を己の如く愛する(大切にする)こと、これこそが「真の人間として自己または隣人を獲得すること」ではないでしょうか。神を信じ、互いに愛し合って生きることは、実に私たちにとって喜ばしいことではないでしょうか。