なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(9)

    「イエスに呼ばれる」 マタイ4:18-25   2018年4月8日船越教会礼拝説教
                 

・もう55年前になりますが、私が神学校を受験した時に、最初に礼拝がありました。その時説教者は、

預言者エレミヤの召命の記事から、神学校に入学しようと受験している私たちに向かって、開口一番「召

命なき者はここを去れ」と言われました。


・私の学んだ神学校は東京神学大学ですが、一般大学の神学部ではなく、日本基督教団立の神学校で、牧

師の養成を目的とする神学校でしたので、入学願書の中に何故牧師になろうとするのか、という自分の召

命観を書いて出していました。そういうところで、「召命なき者はここを去れ」と開口一番言われたもの

ですから、非常に緊張したことを思い出します。


・召命は、牧師の専売特許ではありません。信徒であっても、一人一人にはその人を呼び出す神の召命が

与えられているに違いありません。私の若い頃はCallingとかBerufeと言って、信徒の一人一人には神か

ら与えられた天職と言いましょうか、仕事が与えられているということが言われておりました。宗教改革

者のルターなどの職業観に基づいてです。


・ルター以前は、神の召命を受けた人は、カッコ付きですが「聖職者」に限られていました。聖俗がはっ

きりと分けられていましたので、世俗の職業をしている人は、神の召命を受けてその職業についていると

は考えられませんでした。ルターはその万人祭司の考え方にも示されていますように、聖俗の区別を取っ

払って、世俗の職業についている人も神の召命によってその職業へと召しだされていると考えました。当

時としてはその考え方は画期的なことでした。


・同じ宗教改革者であるカルヴァンの影響を受けた人々は、神から召命を受けた職業観に勤勉で浪費せず

というプロテスタントの倫理観も併せ持ち、初期資本主義を生み出していったと言われます。女性の場合

は、多くの人は家事労働と育児が天職として信じられました。


・つまり、召命は専門職としての牧師、神父のようなカッコ付きの「聖職者」、世俗のさまざまな職業へ

と召命を受けた男性信徒たち、そして育児や家事労働へと召命を受けた女性信徒たちを生み出していると

考えられ、信じられていたのです。古きよき時代の話です。


・現在の私たちは、そのような召命観をもって、日々の生活と仕事に向かうことはできません。何故な

ら、日本のような先進国の社会は、その社会そのものが構造的に貧しさを強いられている人々の中から生

まれるテロのターゲットと見なされる問題を含んでいるからです。貧しい国々の資源や労働を収奪して、

現在の豊かさを得ているからです。そういう問題を全く無視して、今の私たちの日常の生活や働きを無批

判に神による召命であるとうことは出来ません。もしそう考えるとすれば、余りにも先進国に住む私たち

の身勝手で都合の良い召命観であります。


・さて、マタイによる福音書4章18-22節の、ペトロとアンデレ、ヤコブヨハネの二組の兄弟がイエス

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招きを受け、四人はすぐに漁師の仕事を捨て、

父親を残して、イエスに従ったというのであります。このようなことは現実にあるとは思えないという人

もいるに違いありません。しかし、実は私が牧師になるために神学校に行ったときにも、同じような体験

を私もしています。私は高校を卒業して3年間父親の仕事を手伝ってから、神学校に行きました。その時

父親は私に仕事を続けてくれと懇願しました。しかしその父親の懇願を断ち切って、私は仕事も止めて神

学校を受けて入学しました。私は自分が神学校を出て牧師になるように召されていると思っていたからで

す。ですから仕事も止めて、ある面で父親を見棄てて、神学校に入ったのです。今から考えると、その時

の私は、父親の仕事を手伝って、そのまま年を取っていくことに耐えられず、そこから逃げ出したかった

のかもしれません。その口実に神学校へ行くことを選んだのかもしれません。しかし、その時の私は、

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招きを受け、すぐに漁師の仕事を捨て、父親を

残して、イエスに従った4人の弟子たちの心境だったのは間違いありません。


・鈴木正久さんは、このように語っています。「人間として生きることは、単なる生存にとどまらず『人

間をとる』こと、真の人間として自己または隣人を獲得することであり、それこそ『生活』と呼べるもの

ではないか? イエスの召しは、浮き世の海の中で、真の生活、人間性を喪失している私たちを、主体

的・自覚的生活者に生まれ変わらせる」と言っています。


・イエスは弟子たちに「わたしについて来なさい。・・・」と招き、彼らと共に「ガリラヤを回って、諸会

堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされました」(4;23)と言

われています。教え、宣べ伝え、いやされたとありますが、この第三の業であるいやしを求めて多くの人

がイエスのもとにおしかけてきたのです(4:24)。イエスの働きは、イスラエルの人の地で行われながら、

その影響は異邦人地域に住むユダヤ人にまで届くほどであったというのです(4:25)。


・私はマタイによる福音書で、弟子の召命記事とイエスの働きについての記事が並んでいることに深い意

味があるのではと思います。私たちがイエスと関わる場合、弟子たちのようにか、あらゆる病人のように

か、どちらかだと思います。イエスの招きを受けて従うか、私たちの苦しみをイエスにいやしてもらうか

のどちらかです。しかしこのイエスとの関わりにおける二つのタイプは、異なる面を持ちながら、切り離

すことは出来ません。そういう意味では、召命といやしを含むイエスの宣教の働きは、一つのコインの表

と裏という風に言えるように思います。


・イエスは私たちに命を使う道を示してくださると共に、苦しみにおしつぶされる命を、その苦しみから

解き放ってくださる方でもあります。


星野富弘さんに「いのちより大切なもの」という本があります。この本の題は、星野富弘さんの「いの

ちより大切なもの」という詩からとられたものです。その詩を紹介します。


<いのちが一番大切だと

思っていたころ

生きるのが

苦しかった


いのちより

大切なものが

あると知った日

生きているのが

嬉しかった     >


・この詩は1987年に書いたものですが、星野富弘さんはそれ以来長年「いのちより大切なものは何です

か?」という質問を受けて来たが、<しかし、未曽有の大災害となった2011年3月11日の東日本大震災

降、この質問をされる方がほとんどなくなりました>と言って、このように記して言います。<この災害

で本当に多くの方がいのちを亡くされました。昨日までそばにいた家族が、友人が、突然いなくなってし

まったのです。いのちがいちばん大切だとしたら、健康で長く生きることだけが価値ある人生なのだとし

たら、生きるのは、あまりに悲しくて苦しい連続ではないでしょうか。/津波が迫る中、水門を閉めるた

めに津波のほうに向かって走っていった人、人の波に逆らうようにして、「津波が来るぞ」と知らせて

回った人。その人たちは皆、自分のいのちよりも大切なものに向かっていった人ではないかと思います>

と。


・「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」というイエスが弟子たちを招いたイエスの招き

も、自分のいのちよりも大切なものに向かって、イエスと共に生きていこうではないかという招きではな

いでしょうか。イエスは有名な「思い悩むな」という「空の鳥」「野の花」を例にして語った教えの中

で、<だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。・・・あ

なた方の天の父はこれらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず神の国と神

の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩

むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である>(マタイ6:31-3

4)と語っているのです。


・イエスは私たちに命を使う道を示してくださると共に、苦しみにおしつぶされる命を、その苦しみから

解き放ってくださる方でもあります。その意味で私たちが苦しみを抱えてイエスを求めて与えられるイエ

スの癒しも、私たちがイエスに呼ばれて、イエスと共に生きていくイエスの召命も、「人間性を喪失して

いる私たちを、主体的・自覚的生活者に生まれ変わらせ」「真の人間として自己または隣人を獲得するこ

と」(鈴木正久)ではないでしょうか。星野富弘さんは、「津波が迫る中、水門を閉めるために津波のほ

うに向かって走っていった人、人の波に逆らうようにして、「津波が来るぞ」と知らせて回った人。その

人たちは皆、自分のいのちよりも大切なものに向かっていった人ではないかと思います」とおっしゃって

います。<津波が迫る中、水門を閉めるために津波のほうに向かって走っていった人、人の波に逆らうよ

うにして、「津波が来るぞ」と知らせて回った人>は、他者のいのちを自分のいのちと同じように思えた

人なのではないでしょうか。「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」というイエスの教えを身をもっ

て実践した人ではないかと思います。


・いのちは大切だと言って、自分のいのちだけを守るのではなく、自分のいのちも他者である隣人のいの

ちもその尊厳においては同じだということで、その命を脅かす死の力に抗って共に生きていく。それがイ

エスの福音であり、その福音がいのちより大切なものなのではないでしょうか。「いのちより大切なもの

があると知った日、生きているのが嬉しかった」(星野富弘)。私たちもそのように生きていきたいと願

います。