なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(5)

 昨日は寿地区センター主催の青年ゼミがあり、私も朝の炊き出し切り込みから参加しました。切り込みが終わって、寿労働組合のKさんからお話を伺いました。Kさんは、特に東日本大震災による福島原発事故に触れ、事故処理のために各地の寄せ場から福島原発に労働者が送り込まれている現状を話されました。寿でも1日7万円という話があるようで、さすがに7万円にのる人はいないようです。家族とも関係が断たれている寄せ場の労働者は、行方不明者になっても、探す人がいないので、そのままになってしまうということも話していました。既に200人弱の人が、福島原発で働いている人の中から行方不明者になっているとも言われています。原発は、そもそものはじめから人を使い捨てにしなければならないというリスクを抱えて稼働させたのです。電力会社と国の責任は大変大きいと言えます。速やかに原発を廃止すべきです。
 以下「黙想と祈りの夕べ通信(5)」を再録します。
 
 黙想と祈りの夕べ
   (通信№ 5  19991031発行)
 
 不思議なものです。24日(日)の午後、聖歌隊が神奈川教区音楽祭に戸塚の明治学院のチャペルへ行くのを見送り、私は2時頃受け付けを頼まれていた寿講演会のある横浜バプテスト教会に向かいました。お昼はろばパンでしたので、競馬の場外馬券売場に群がる人々の中、いろはのラ-メンで腹拵えして(いろはのラ-メンは安くて大変おいしい、知る人ぞ知るラ-メン屋です)。寿講演会は、韓国のソウルを中心とした聖公会の「分かち合いの家」について、その一端を担って来られたソン・ギョンヨン神父の講演でした。神奈川教区によってはじめられた寿地区センタ-の活動が始まったのと同じ頃だと思われますが、1986年9月に「分かち合いの家」の活動が本格的に始まり、現在それから13年が経過しています。ソン・ギョンヨン神父の講演内容はこの紙面では紹介できませんが、講演会の会場で販売されていた「分かち合いの家」の10年誌の中に記されています、「分かち合いの家」の、「草創期、実務者たち定めた」基本精神を引用させてもらいます。 「労働の神聖さを悟り、これを実践し、不義と不正によって苦しみを受けている隣人たちとともに生きる暮らしを通して具体的に神の意志を具現していくとともに、黙想と切なる祈りによって自ら朽ち行く一粒の麦になることを、神の前に告白する」(傍点北村)。
 私は、傍点のところを読んで、ハットさせられました。「黙想と祈りの夕べ」をはじめる時に、私はそこまでは考えていませんでした。ただ前回の通信にも書きましたように、多少抽象的かも知れませんが、「共苦の共同体」という視点とそのような共同体への参与ということは考えていました。ですから、「黙想と祈りの夕べ」では「分かち合い」の時を持ち、各自で考え担っていること、祈りの課題で共有できることは共有したいと思いました。それにしても「自ら朽ち行く一粒の麦になる」は、刺激的で示唆深く感じられました。
 24日の会では、「分かち合い」に当たる課題が二つでました。一つは、現在リストラで仕事を失った人たちが多くいる反面、仕事をしている人の側でも少人数に過重な仕事量の負担が強いられ、心身を痛めているとう現実です。私は、実際の企業の労働現場についてはよくわかりませんが、一人の兄弟が、徹夜で仕事をして翌日もそのまま仕事を続けて、エレベ-タ-で倒れてしまったということを伺い、そこまでしなければならないのかと思わされました。そういう人たちからすれば、私の立場などは甘いのかも知れません。けれども、片やリストラ、片や過労という労働現場が何故つくられているのかという現在の状況については、よく考えてみなければなりません。資本の横暴を許して行けば、ますます非人間的な社会となって行くでしょう。その意味でも、「分かち合いの家」の運動は、私たちにも大切なメッセ-ジを送っているのではないでしょうか。
 もう一つは、教会女性会議に出席した姉妹から、女性差別の現実が話されました。特に女性教職の中には任地が見つからず、生活にも困っている方があるということです。女性教職の問題は、私のような男性教職の問題でもありますが、同時に教会が教職を招聘するときに、女性教職を男性教職と対等に考えて人選するかという教会の問題でもあります。数において女性信徒が圧倒的に多いにもかかわらず、自分の所属する教会の牧師に女性教職を最初から招聘しないということであるとすれば、それは一体何なのか。よく考えて見なければなりません。