なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「私の『戒規免職』問題とは何か?」(なか伝機関誌より転載)

 以下は、日本基督教団なか伝道所に招かれて、「私の『戒規免職』問題とは何か?」と題して私が話したものです。「ことぶき『なか』だより」(147、2011年10月)に掲載してありますものを(日本基督教団なか伝道所のホームページをご覧下さい)、ここに転載いたします。一部手直ししたところもあります。

「私の『戒規免職』問題とは何か?」 (その1)

 経過のあらまし

 直接のきっかけは、紅葉坂教会が1999年3月の教会総会で、未受洗者にも聖餐を受けることを認めると決めたことです。それまでも実質的には「どなたでも」受けていました。1995年4月に私が着任したときに、このことにはっきりと道筋をつけてほしいと言われ、総会で教会規則第8条の「聖餐には洗礼を受けた信徒があずかる」という文言を削除しました。これが教団で承認されず、突き返されてきたのですが、その後教団は何もいってきませんでしたので、そのまま時が経っていきました。
 その後、私が教区や教団に積極的に関わり始め、2004年に常議員(総会に次ぐ議決・執行機関)に選ばれました。それに先立つ2002年から教団の方向性が逆流しています。2002年の総会で沖縄教区(旧「沖縄キリスト教団」)との合同のとらえなおし関連議案全てが廃案になったり、靖国天皇制情報センターや性差別問題特別委員会等が潰されたりする経過の中で、私が抗議の全面に立つことがあり当時の山北教団総会議長と対立する形になります。
 2005年頃から、山北議長の発言の中に、信仰告白、教憲教規を守れということが前面に出てきます。信仰職制委員会からオープン聖餐を各個教会が勝手にやってはいけないという答申があったりしました。
 2006年10月の教団総会には、前回に引き続き沖縄教区が出て来ませんでした。先の教団総会での「合同のとらえなおし」関連議案の取り扱いの不誠実さに抗議して、教団と距離を置くと決めたからです。この状態にさせたのは教団の側ですから、私はおかしいと考え、常議員でしたがこの総会での聖餐にあずかりませんでした。これが問題とされ、翌年の7月に開かれた常議員会で私が聖餐について発題を担当することになったのです。記録に残さない自由な協議という約束で、開かれた聖餐を行っている教会の考え方を語ったのですが、これが「教団の公的な場で事実を認めた」こととされ、その10月に教団議長から教師退任勧告を受けるに至りました。この勧告を私が受け入れなかったので、その後、常議員会の決議により、教団議長が教師委員会に対し私への戒規適用を提訴したのです。
 ところが、2008年の教団総会(44号議案)では、常議員会・教団議長による戒規申し立てが無効だという議案が可決されました。常議員会は、教師委員会の戒規適用に対する上告を審議する機関ですから、ここが戒規の提訴に関わることは、上告審の中立・公平を損なうというのがその理由です。
 これで戒規の問題は消えたと思ったのですけれども、何としても私を戒規にかけたいという空気が強くなっていて、また出てきました。教団の戒規の規則(戒規施行細則)のこれまでの前例では、教師の戒規を申し立てるのは、教会役員会か教区常置委員会だとされてきました。教師委員会の内規でもそうなっており、決定は3分の2の賛成によるとなっていますが、できれば全員賛成が望ましいと記されていたのです。ところが2009年の内規変更で、戒規の申し立ては誰でもできる、教師委員会判断で独自に取り上げることもできることになりました。これによって、私への戒規適用が教師委員会で取り上げられ、2010年1月末に免職処分を受けました。私はこれを不服として上告しましたが、7月の常議員会を経て9月21日に上告を棄却するという最終決定が来ました。これで教師委員会の決定が最終決定になりました。この経過を見ているかぎり、何が何でも北村を戒規にかけたいという教団執行部の意志が強かったということです。

 二分化する教団

 このような経過を生んだ背景には、教団の中が二つの立場に分化しているということがあります。
 1960年代以降、教団には、世のための教会という考え方と、信徒を集める伝道中心という二つの考え方がありました。「神→教会→この世」という考え方に対して、神がこの世に直接関わり、教会はそれに参与していくという考え方(「神→世界→教会」)があります。井上良雄さんは「戦責告白10年後」という文章で、戦責告白をどう理解するかで教団の教会は二つに分かれると書いていますが、2008年に山北議長は、戦責告白以降の40年間は「荒野の40年」だった、社会のことばかり考えて伝道に怠慢だったと言っています。これは二つの立場の内の一つの方を明確に表す言葉です。
 教会擁護の考え方はいつの時代にもあり、今の教団の体制を支える人たちにそれが現れているのではないかと思います。戦時下の天皇制国家の下では、お互いに違いをはっきり言える状況ではありませんでした。戦時下における教団の戦争協力の反省に立って、1970年から90年までは、「世に仕える教会」という方向性をもった人たちが教団のイニシアティブを取っていました。しかし、1970年以来教区総会を開催できなかった東京教区が、1990年に東京教区総会を開催し、全数連記で選出された教団総会議員75名を出してきて、総勢400名の教団総会の力関係が激変しました。東京神学大学(以下東神大)を支える立場の人たちが多数となり、「それいけ伝道」という風に、教会が力をつけなければ世に説得力がないという教会擁護の考え方になっていきました。私は教団の中では、東神大に対して批判的でありますし、寿との関わりもあり、教会の宣教にとって護教ではなくイエスの運動が不可欠で中心的課題だと考えています。東神大の機動隊導入を経験した方々はもう高齢で、多くは隠退しています。90年代以降の体制を支える護教的な人たちにとっては、私が目障りだったと思います。

 「合同教会」と「公同教会

 山北議長の背景には、「福音主義教会連合」(以下)というグループの動きがあります。
 1970年の万博キリスト教館出展への厳しい問いかけがあり、出展を思想的に支える東神大教授の状況捨象の神学を批判する学生たちを、機動隊導入で追い出したのが「東神大問題」です。わたしたちは、万博出展をアジアへの経済浸出の始まりであり、戦時下の戦争協力と同じと批判しました。70年から90年ごろまでの教団の中心になったのは、この流れです。これに対して山北議長は、この当時の教団は、信徒が一生懸命やった万博出展を見捨てたと、逆に解釈しています。しかしある時期まで、そういう人たちはあまり教団政治に関わって来なかったのです。
 「福連」と並んで、連合長老会(以下「連長」)というグループがあります。教会の伝統には、監督制、長老制、会衆制という三つの流れがあります。長老制というのは選ばれた特定の人たちが物事を決めていく、代議制の教会です。1939年に宗教団体法が制定され、その圧力に屈した形で、異なった伝統を抱えた諸教会が合同し、「日本基督教団」ができました。戦後、これでは自分たちの思うように教会形成ができないと、教団を出て行った長老派の人たちがいました。他方教団のなかに留まった長老派のグループは、教団政治にはあまり関わらないで、教団内にあって自分たちの改革派的な教会形成をめざすという行き方をとっていました。
 「福連」と「連長」という二つのフループは、東神大とのつながりが深く、90年以降、足並みを揃えて教団の運営に乗り出してきました。東神大の経済的な危機も背景の一つではないかと思います。彼らが一つの大きな力となり、異なる考えを排除して教団を思うように運営しようという力学が強く働いています。
 2010年の教団総会では、ある層の議員約200名に、「議案ガイド」が配られ、議案の採決も三役・常議員の選挙も、そこに指示されていた通りの結果になりました。私の免職の撤回議案も出ていたのですが、その「議案ガイド」に総会議案としてはとりあげないとされて、その通りになりました。前回(2008年)までの総会では、常議員選挙は半数連記だったのが、この総会では全数連記となり、一部の人たちが教団を乗っ取った形になりました。
 数年前に、教団は「合同」教会から「公同」教会になったと言えます。「合同」教会というのは、伝統の異なる教会が一緒に集まってやっていくもの。長老主義でもやっていけるように信条を重んじ、信仰告白が調整弁になっていました。ところが「公同」教会では、信条は同じでなければならず、多様性は認められません。教団「信仰告白」と「教憲・教規」が絶対性をもって強制されます。そこでは、戦時下の教団が同じような教理・規則を持ったまま戦争に協力したことなど問題にされず、教会が自己目的化しています。「合同」教会としてやってきた教団に、一部の人たちが「公同」教会を押しつけようとしているのです。
 こういう意図と力関係の中で、私の聖餐戒規の問題というのは非常に強引なやり方で決められていますので、現状では教団の機関を通じて解決することはできません。やくなく、裁判を通してそういう教団の体質を問うていきたいと思います。
 私は、教理上の問題を討論抜きの多数決で決めてしまうのは数の暴力で、そういうことをイエスはしないと思います。結局私たちが教会を、イエスの福音をどのように捉えるか、違った考え方を持っている人たちとどう関わるのか、イエスを信じて集まっている仲間ならば相手を排除するものなのか、が問われていると思います。私は福音主義教会連合や連合長老会を排除するつもりはありません。対話をしていきます。
 私は真理性のあるものは残っていくと信じています。だからこれからも、これまで通りやっていこうと思います。残念ながら、戒規問題では、自己絶対化する人たちが力を持ってしまっています。そこが今の教団の残念なところです。しかし私は政治的には排除されていても自分のおかれている場でやり続けていきます。こつこつと自分の信じる道を歩み続けます。一番大事なことは、自分の信じることを、与えられた場でやり抜くということではないかと思います。