なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(413)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(413)復刻版を掲載します。2007年8月のものです。

 下記には、私が紅葉坂教会の牧師時代に船越教会の代務者をしていて、当時の船越教会の修養会に参加し、

その修養会で話し合ったことを書いています。この時の代務者時代に、一人の方を船越教会の牧師に招へい

することができました。その方は2年間船越教会の牧師を務めてくださいました。その方が2年間で船越教会

の牧師を辞任しましたので、その後また私が代務者になり、現在に至っております。私は紅葉坂教会時代の

最後の時期に、教団から教師免職処分を受けましたので、現在船越教会の牧師として働いていますが、公式

には、教団も教区も私を船越教会の牧師としては認めていません。



           黙想と祈りの夕べ通信(413[-48]2007・8・26発行)復刻版


 8月18日(土)から19日(日)にかけて、私が代務者をしています横須賀の船越教会で修養会がありました。

私はその修養会に参加しました。参加者は私を含めて10名でした。毎回の礼拝出席が4~5名ですから、アクテ

ィブな教会員がほぼ全員そろったことになります。現住陪餐会員が約15名ですので。

 今回の修養会では、今までの反省の上にこれからのことを考えること、具体的には教職を招聘するか、

信徒だけで今後の教会の働きを担っていくかの決断にありました。話し合いの結果は、具体的な教会堂の

維持管理を含めて、毎週の礼拝を信徒だけで担うというのは無理であるということで、現在の船越教会

に来てくださる方があれば、牧師を招聘するということに決まりました。

 さて、そのような牧師招聘という方向が決まるまでに、今までの牧師への批判を含めて、信徒自身の

反省、さらに希望する牧師像等々、それぞれが忌憚の無い意見を出し合い、最後に教職なしで自分たち

だけで今後やっていくか、教職招聘のオファー(申し出)をするかということになりました。自分たちで

やっていくという意見の中には、一人の牧師の説教を何年も聞き続けるよりも、みんなで聖書を自分の生活

との関わりで読んでいきたい。折角与えられている会堂を生かして、誰か起業でもして、会堂が地域の人たち

に役立つように出来ないか。たとえば、高齢者の給食サーヴィスや作業所だとか、何でもいいのではないか。

そういう意見もでました。牧師がいなくてもよいという意見の方の中には、牧師がいると教会がどうしても

縦社会になり易く、民主的な関係という点で教会の人間関係が一般社会よりも遅れているという認識がある

ようでした。このような教職を迎えず自分たちだけでやるという考えに心情的には賛成の方が他にもいまし

たが、みんな忙しい中で、しかも現在のような少人数では、やりたくても出来ないということで、牧師招聘

のオファーをすることになりました。

 私はこの議論に一緒に参加していて、この問題には現在の資本制社会の分業制の影響があるように以前から

思っていましたので、そのことをお話しました。信徒だけで教会の働きを担いたくても、それが現実には相当

困難であり、それでも自分はやるという人がいない限り難しいという現実は、社会の分業制に原因があるので

はないか。例えば週2日働いてその人の生活が成り立つ収入をみんなが得られれば、信徒だけでも教会の働き

を担えるかもしれない。ところが現在のようにみんなが忙しく、信徒が教会のために使える時間が限られて

いる場合には、どうしても専従者としての教職が必要ということになるということを、お話しました。そして、

牧師招聘というオファーをすることに決めたが、信徒で教会を担うという意識と課題は、たとえ牧師招聘が

かなえられても、持ち続けて、新しく来られた教職の方と考えていかれたらどうかと申し上げました。

 私は教職も一人の信徒であるという理解をしています。実際の教会は、准允、按手により教職を聖職者に

仕立て上げていますが、教職は准允、按手によって教会からの委任を受けて、教会の専従者として聖書(説教)

と牧会(祈り)という教会の働きに仕える者に過ぎません。万人祭司制をとるプロテスタントの教会では、

教職制度は信徒の上に立つ階層制としてではなく、働きの委託という機能制という面が強いと思います。

 ですから、教職の役割は、自分も一人の信徒であるという自覚に立って、信徒が聖書をどう読むかに仕え、

社会の中で信徒が自立した信仰をもって生きていくことに仕えることにあると、私は思っています。そういう

意味で、教会が教職を招くということと、自立した信徒が共に教会の働きを担うということは、決して相反

することではないということを、船越の信徒の方にも申し上げました。

 18日(土)の午後1時から19日(日)の礼拝をはさんで午後1時半まで、土曜日は0時近くまで話しましたので、

相当濃密な話し合いが出来たように思います。日曜日は修養会終了後、役員会があり、3時半に船越教会を失礼

しました。船越教会の代務者としての私の働きは来年3月までです。何とかそれまでに船越教会に新しい牧師が

与えられますように。        



               「死者を思い起こす」   8月26日


 大切な友や深く愛している人を失った時、私たちは、長い間感情が麻痺してしまうような深い悲しみの内に

置き去りにされてしまいます。私たちが愛している人々は、私たちの一部分になっています。私たちの考え、

感じ方、振る舞いは、なくなった人の影響を受けながら決められてゆきます。父、母、妻、恋人、子どもたち、

友人たち、これらの人々はみな私たちの心の中に生きています。彼らが死ぬ時、私たちの一部分もまた一緒に

死ぬのです。それが、悲しみということです。つまり私たちの深みで自分の親しい一部分となった人が、

少しずつ少しずつ傷みを伴いながら旅立ってゆくことなのです。クリスマスやお正月、誕生日や慶弔の記念日

のたびに、私たちの愛する友がもはやいないのだということを深く味わいます。愛する人に私たちの心が余す

ところなく別れを告げ、離別の悲しみが引く潮のように遠ざかるのに、時に一年あるいはそれ以上の年月を要

します。けれども、亡くなった人々を私たちのもとから真に旅立たせる時、これらの人々は私たち自身を成し

ているものの一部になります。私たちが亡くなった人々を思い起こす時、私たちの霊の旅路の道案内となって

くれるでしょう。


                      (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)