なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(507)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(507)復刻版を掲載します。2009年6月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(507[-36]2009・6・14発行)復刻版


 神奈川教区形成基本方針について学び合う神奈川教区の2009年度第一回オリエンテーションが5月31

日(日)にM教会で行われました。今年は参加者が多く、当教区に新らしく来られた新任教師が多かった

からだと思います。オリエンテーションの対象者は他教区から転任してきた新任教師、教師試験受験志

願者、准允・按手志願者などです。今回の参加者の中にこの4月からK教会の代務者になりました東神大

某教授がいて、話し合いの中で戦時下のことが問題になったときに、当時の教団の指導者は復活信仰を

守ったという発言をされました。

 当時の教団は「日本基督教団信仰問答稿」を確定し、発表するに際して、発表に先立ち富田統理と村

田教学局長が文部省と交渉をしました。その際、復活信仰は幼稚で奇怪な迷信であるから、これを信仰

問答から除外せよ、という文部省の教学局長の要求に対して、二人は「私どもは今日まで日本国民とし

て、心から日本を愛し、日本の非常事態体制に即応し協力してきたのだが、信仰の最後の線から退くわ

けにはいかない。ですから、そこまで仰言るのでしたら、私どもにも最後の覚悟があります」という意

味のことを言い、その時二人は心の中で殉教を覚悟したというのです。

 某教授はこのことを言われたのだと思います。だから何なのか。信仰を守ったから、戦時下の教団

は戦争協力をしたことにはならないとでもいうのでしょうか。あるいは、戦争協力をしても復活信仰

を守ればいいのだとでもいいたいのでしょうか。私にはよく分かりませんでした。某教授が言われる

ように復活の教義を守ることが信仰だとは私にはどうしても思えませんでした。

上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。国会前の辺野古の座り込みに今日も行って

きた。友人が沖縄で牧師をしているという方が、座り込んでいる私たちの前を素通りするわけにはいか

ないと、カンパ箱にカンパを入れてくれた。その方は浅野順一先生の弟子の一人で、足立梅田教会の藤

村靖一先生と知り合いとのことでした。足立梅田教会で浅野順一先生が聖餐式をしたときに、まだ洗礼

を受けていない方の中で聖餐に与りたい方は与ってくださいと言われた。そして天国に行った時に、自

分がもし間違っていたら神さまに謝っておくからとおっしゃった話に花が咲いた。退任勧告が出たとき

私は余り揺れなかった。しかし、開かれた聖餐についての最近の教団の動きに今は空恐ろしさを覚えて

いる。京都のある教会が学童保育をすることになり、宗教法人格をとることにしたいという。 ところ

が教団に申請すると、あなたの教会は聖餐式を開いているというので、却下されてしまったという。そ

こで京都教区は教団総会に出て行こうかどうか話し合っているそうだ。浅野順一先生と今の教団の差を

感じる。そういうことをする教団は世も末かと思われる。常置委員会に出ても同じ空気を感じる。人が

自由に物を考え、行動することが信仰だと思うのだが、規則によって縛られることに恐ろしさを感じる。

勧告の時には神様がよい方向に導いてくれると思えたが、今は違う。自分が何をしなければならないか

考えていかなければならないと思う。

 また別の人の発言がありました。西東京教区で君が代を弾けないという教師が裁判で敗訴したが、今

も頑張っている。神奈川教区のオリエンテーションではかつての大阪万博キリスト教館出展による伝道

を肯定する意見の人があったが、虐げられている人のことをどれだけ考えているのか疑問だった。自己

批判ができてはじめて自分も許し、他者も許せるのではないか。自分と違う者を排除する自己絶対化す

る人とどのように対話していったらよいか分からない。切り捨てないというのがお題目になって、実際

には切り捨てていることもある。切り捨てた者への謝罪を忘れずにやっていかなければならないと思う。
        

        「愛を選ぶ」        6月14日

 すべてとは言えないにしても、そのほとんどの経験が愛の対極にある~恐怖、憎しみ、暴力、虐待だ

ったとしたら、その人は無条件の神の愛が存在するということをどのように信じることが出来るでしょ

うか。

 そのような人々であっても、犠牲者と決まってはいません。そのような人々の中に、隠されているか

のように、愛を選ぶことの出来る可能性が残されています。非常に恐ろしい拒絶にあい、また非常に残

酷な拷問にあった人々の多くが、愛を選ぶことが出来ました。愛を選ぶことで、これらの人々は人間の

弾力性の証人となったばかりでなく、あらゆる人間の愛を超える神の愛の証人ともなりました。どんな

ささやかなものであったとしても憎しみと恐怖のさなかで愛を選ぶ時、その人は私たちの世界に真の希

望をもたらしてくれます。
 
 
                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)