なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

神の国の社会ってどんな社会?

          「神の国の社会ってどんな社会?」 

 最近私は鶴巻と船越の行き帰りの電車の中で、柳田国男の文庫本を読んでいます。と言っても、電車で席

に座ると、自然に居眠りに入っていて、実際に本を読んでいる時間はそう多くはありません。まず『明治大

正史世相編』(講談社学術文庫)を読みました。この文庫本は、大分前に購入して読まずに積んでいたもの

ですが、最近柄谷行人の『遊動論~柳田国男と山人~』を読んで、柳田国男の本を読みたくなって読んでみ

ました。次に読んだのは、『小さな者の声~柳田国男傑作選~』(角川文庫)です。そして今は『「小さな

もの」の思想』(柄谷行人編、文春学芸ライブラリー)を読みかけています。

 柄谷行人は『遊動論』の中で、最後にこう述べています。

「・・・根本的に『国家に抗する』タイプの遊動民は、山人である。しかし、山人は当初から実在するとは

いいがたい存在であった。山人の存在を唱えた柳田は嘲笑され、次第に自説を後退させた。が、けっして放

棄することはなかった。定住農民(常民)に焦点を移しつつ、彼は『山人』の可能性を執拗に追及したので

ある。最終的に、彼はそれを『固有信仰』の中に見出そうとした。彼がいう日本人の固有信仰は、稲作農民

以前のものである。つまり、日本に限定されるものではない。また、それは最古の形態であるとともに、未

来的なものである。すなわち、柳田がそこに見いだそうとしたのは、交換様式Dである」(195頁)。

 交換様式Dとは、「A:互酬(贈与と返礼)、B再分配(略奪と再分配)(強制と安堵)、C:商品交換(貨

幣と商品)、D:X」である、「定住以前の遊動性を高次元で回復するもの、したがって、国家と資本を超え

るものを、私は交換様式Dと呼ぶ。それはたんなる理想主義ではない。それは交換様式A(互酬)がそうであ

ったように、『抑圧されたものの回帰』として強迫的に到来する。いわば『神の命令』として。それは最

初、普遍宗教というかたちをとってあらわれたのである。だが、それは交換様式そのものは宗教ではない。

それはあくまでも経済的な交換の形態なのである。/交換様式Dにおいて、何が回帰するのか。定住によっ

て失われた狩猟採集民の遊動性である。それは現に存在するものではない。が、それについて理論的に考

えることはできる」(193頁)と、柄谷行人は述べています。

 私が柄谷行人の遊動論のような事柄に関心を持つのは、国家と資本から解放された社会とはどんな社会

なのだろうかと、いう興味からです。さらに言えば、イエスが宣教した「神の国」を反映した現実の社会

とはどんな社会なのだろうかを、想像するからです。

 一体、イエスが宣べ伝えた神の国を反映した現実の社会って、どん社会なのでしょうねえ・・・!