「軛を負う」エレミヤ書27:1-11、2017年6月25日(日)船越教会礼拝説教
・時は紀元前594年の頃と思われます。その数年前に当たる紀元前597年には、バビロンのネブカドレツア
ルによる第一回の捕囚がありました。この時はまだエルサレムは完全には破壊されませんでした。第一回
捕囚でバビロニアに連れて行かれたのは、エルサレムで有力な人々でした。第一回捕囚については、列王
記にこのように記されています。
・《ユダの王ヨヤキンは母、高官、宦官らと共にバビロンの王の前に出て行き、バビロンの王はその治世
の第八年(前597年)に彼を捕らえた。主が告げられたとおり、バビロンの王は主の神殿の宝物と王宮の
宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所のために造った金の器をことごとく切り
刻んだ。彼はエルサレムのすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として
連れ去り、残されたのはただ国の民の貧しい者だけであった》(列王下24:12-14)。
・第一回捕囚でバビロンに連れて行かれたヨヤキン王は、エジプトの勢力下にありました。
ネブカドレツアルがヨヤキンの代わりに王としたのが、ヨヤキンのおじであるマタンヤで、ネブカドレツ
アルはその名をゼデキヤと改めさせています。先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書27章1節の、
《ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤ》とは、この第一回捕囚の時にネブカドレツアルによって、エルサレム
残留民の中に立てられたユダの王であります。
・南王国ユダは、紀元前721年に北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされてから、アッシリアとアッシ
リアに代わってその後に起こったバビロンとエジプトという二つの覇権国家の狭間で、常に揺れ動いてい
ました。南王国ユダにあって宗教改革を行ったヨシヤ王はバビロン寄りで、バビロンに滅ぼされたアッシ
リアと同盟関係にあったエジプトがアッシリアを応援するために派遣したエジプト軍を阻止しようとして
紀元前609年にメギドで戦った時に戦死してしまったのです。その後南王国ユダでは自主的にヨシヤの子
ヨアハズを王にしますが、エジプトはヨアハズを廃位させ、その代わりにエジプトの傀儡としてヨヤキム
をユダの王にします。そのヨヤキムの子がヨヤキンでネブカドレツアルによって捕囚となった時の王で、
エルサレムの有力者たちと共にバビロンに連れて行かれたのです。その時ゼデキヤがネブカドレツアルに
よってイスラエル残留民に中に立てた王がゼデキヤです。
・少しわずらわしかったと思いますが、これで、ゼデキヤがどのような歴史的背景の中で王になったのか
ということを理解していただけたのではないかと思います。このような説明をさせていただいたのは、今
日のエレミヤの預言が語られたのが、《ヨシヤの子ゼデキヤの治世の初め》と言われていますので、この
エレミヤの預言が語られた歴史的状況を思いめぐらしていただきたいと思ったからです。
・さて、《ゼデキヤの治世の初め》とありますから、ネブカドレツアルによってゼデキヤが王に立てられ
たからしばらくしてから、3節にありますように、ゼデキヤのもとに周辺の国々の王の使者が集まって来
たのです。そこには《エドムの王、モアブの王、アンモン人の王、ティルスの王、シドンの王》という五
つの国の王の使者がゼデキヤのもとに集まったということが記されています。何故ゼデキヤのもとにこの
ような5人の周辺の国々の王の使者が集まったのでしょうか。おそらく同盟を結んでバビロンのネブカド
レツアルに反旗を翻すためだったと思われます。
・この時エレミヤは神に促されて一つの象徴行為をもって、この五つの国の使者たちにそれぞれの国に
帰ってその主君に伝えるようにと、《イスラエルの神、万軍の主はこう言われる》(4節)と言って、預
言を語ったというのです。エレミヤの象徴行為とは、重いものを運ぶために牛などの首にはめる軛の横木
と綱をつくって、それをエレミヤは自分の首にはめたのです。それは、今はバビロンの支配に従えという
ことを示すものでした。バビロンの支配の重圧をじっと耐えて生きよというメッセージです。木田献一さ
んは、<エレミヤは歴史を動かしている客観的な力についての冷静な判断を忘れないで、主観的な愛国心
に動かされる行動を抑制しようとして、あらゆる手段に訴えて、軍事力や経済力に打ち克ちうる人間の主
体性を呼び醒まそうとしました>(『エレミヤ書を読む』154頁)と言っています。
・5節以下にこの時エレミヤが語ったという預言が記されています。そのまず最初にこのような言葉が出
てきます。《わたしは(神ヤハウエは)大いなる力を振るい、腕を伸ばして、大地を造り、また地上に人
と動物を造って、わたしの目に正しいと思わせる者に与える》(5節)と。ここには神の創造とその創造
の目的が記されています。大地も人も動物も神の造られた被造物であり、その被造物は《わたしの目に正
しいと思わせる者に与える》というのです。
・この時、エレミヤにとって「神の目に正しいと思わせる者」とは、《バビロンの王ネブカドレツアル》
でした。ネブカドレツアルをエレミヤは《すべてわたしの僕バビロンの王ネブカドレツアル》と言ってい
ます。当時現在のように国家の枠を超える国際連合のような組織は生まれていませんでした。エレミヤが
現代にあって預言するとすれば、「神の目に正しいと思われる者」として国際連合を挙げるかも知れませ
ん。けれども、エレミヤは「神の目に正しいと思わせる者」をバビロンの王ネブカドレツアルと言ってい
ますが、同時に《諸国民はすべて彼とその子と、その孫に仕える。しかし、彼の国にも終わりの時が来れ
ば、多くの国々と大王たちが彼を奴隷とするであろう》(8節)とも言っているのです。つまりバビロン
の支配は永遠ではないと。25章11節、12節では、バビロンの支配は70年とはっきり限定しているのです。
《これらの民はバビロン王に70年の間仕える。70年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、また
カルデヤ人の地をその罪のゆえに罰する》と。
・しかし、その間《バビロンの王ネブカドレツアルに仕えず、バビロンの王の軛を首に負おうとしない国
や王国があれば、わたしは剣、飢饉、疫病をもってその国を罰する、と主は言われる。最後には彼の手を
もって滅ぼす》(8節)と、エレミヤは語っているのです。ですから、《バビロンの王に仕えるべきでは
ない》と言っている、《預言者、占い師、夢占い、卜者、魔法使いたちに聞き従ってはならない。・・・
それは偽りの預言である。彼らに従えば、あなたたちの国土を遠く離れることになる。わたしはあなたた
ちを追い払い、滅ぼす》(9、10節)とも、エレミヤは語っているんです。
・そして今日のエレミヤの預言の最後に、《しかし、首を差し出してバビロンの王の軛を負い、彼に仕え
るならば、わたしはその国民を国土に残す、と主は言われる。そして耕作をさせ、そこに住まわせる》
(11節)と。
・このエレミヤの預言には、国家権力に左右されることなく、この神に造られた大地と人と動物の神の被
造世界の中で、神は私たちに耕作させ、そこに住まわせてくださるのだという、強いメッセージがあるで
はないでしょうか。現代から考えればエレミヤの時代は古代社会です。エジプトやアッシリヤやバビロン
やペルシャのような覇権国家が争い合うのは仕方ない。けれどもイスラエルのような小国がその狭間で王
のために戦争に巻き込まれるのは愚かなことだ。国の威信などは捨ててしまって、バビロンの軛を負って
生きるべきだ、そうすれば覇権国家バビロンの軛の重荷の中でも、人々は助け合って命を紡ぐことができ
るのだと。エレミヤそのように語っているように、私には思えてなりません。何れ神の支配がこの地上に
実現成就した暁には、国家は消滅するか、国家や民族の違いを、多様性としてお互に認め合って共存共栄
の地球市民が誕生するに違いないと思うのであります。
・私は最近沖縄戦後民衆史を専門にしている森宣雄さんという方と、ひょんなことで面識を持つようにな
り、彼が大阪教区の集会で行った講演の資料をいただきました。それを読んで戦後沖縄の民衆の生き様を
改めて教えられました。十数年前に辺野古のテントに座り込みに行ったときに、この辺野古新基地建設反
対の運動が、辺野古のおばあ・おじいたちによって始まったことを知りました。それは戦後、戦争ですべ
てが失われてしまった後、辺野古の海の幸によって人々が生き抜くことができた、その海を埋め立てて人
殺しの為の軍事基地にするなんて、絶対に許せないというおばあ・おじいの思いから、辺野古新基地建設
反対の運動ははじまったということです。辺野古のテントで一日辺野古の海を見ながら座り込みをしてい
ますと、おばあ・おじいの思いが、本当にそうだよな、と伝わってきます。
・戦後沖縄では女性や子どもやお年寄りを中心に、民衆の助け合いと自然の恵み、民族文化の力によって
生きのびたと言われます。1945年8月の人口構成比によれば、20~59歳の男性の青壮年層は9%、女性は62%
だったそうです。しかも沖縄は戦後1947年の「天皇メッセージ」で50年程度の対米租借地に供出されま
す。全権を支配する米軍政府の強権に屈しながらもその苦難・悲哀をきずなに同胞意識とひとの情け・道
理をかちとっていきます。そこにはよわい者同士が助け合うモラル「ちむるぐさん」(=ひとの痛みを他
人事にできない)が軸となっています。村落共同体の自治を基盤にした「島ぐるみ」の総抵抗の波を何度
も繰り返します。1972年の日本返還前も後も。1997年からは辺野古新基地建設反対運動が今も壮絶な闘い
として続いています。森宣雄さんは、これらの運動は女性が中軸か基盤になっていると言います。そして
「人間界に対立を超越する海空の大自然に視点を据え、すべてのいのちをまもる世界観でつながり合い、
世界に開かれている」と言っています(以上森宣雄さんによる)。
・私はこの森宣雄さんの「沖縄の戦後民衆史」の研究から示されている女・子ども・お年よりによる「ち
むるぐさん」(=ひとの痛みを他人事にできない)を軸に形づくられる共同体による生は、預言者エレミ
ヤがイスラエルの民に求めたものと共通しているように思われてなりません。エレミヤは神ヤハウエの下
における契約共同体としてイスラエルの民が覇権国家の支配の中で生き抜く道は、今はバビロンの軛を負
うことによってなのだ。バビロンと言えども永遠ではない。その力を振るっているのは高々70年に過ぎな
い。恐れずバビロンの軛を負って生きよ、と預言しているのです。
・その意味で、<エレミヤは歴史を動かしている客観的な力についての冷静な判断を忘れないで、主観的
な愛国心に動かされる行動を抑制しようとして、あらゆる手段に訴えて、軍事力や経済力に打ち克ちうる
人間の主体性を呼び醒まそうとしました>(『エレミヤ書を読む』154頁)という木田献一さんの言葉に
耳を傾け、沖縄戦後史における女性・子ども・お年寄りを中心とする「ちむるぐさん」(=ひとの痛みを
他人事にできない)を軸に形づくられる共同体による生に思いを馳せ、私たちの足元からそのような生に
連なっていきたいと切に願います。主よ、導き給え。